2019年1月16日水曜日

読書メモ・ロナルド・カトラー「秘密の巻物」


ロナルド・カトラー著「秘密の巻物」という小説を読みました(新谷寿美香訳・イースト・プレス)。

「ガーディアン」という、極端に排他的な信仰を持つグループと、アメリカ人考古学者のジョシュ・コーハンとの、命がけの戦いの物語です。


イスラエルの史実や遺跡など、事実に基づく描写が多く、そちらのほうに深い知識のある人にとっては、いろいろとツッコミどころのある作品なのかもしれないですが、細かいことは気にせずに楽しみました。



(ただ一点、どうしても気になる箇所がありました。物語の本筋に関わるものではないのですが、ツッコみたい欲求が抑えがたいので、最後に書きます😅😅😅😅)


主人公のジョシュは、有能な考古学者だけれど、大学の研究チームの上司に発掘上の大発見を横取りされた上、パワハラを受けるようになったため、休暇を取ってイスラエルを訪れます。

ジョシュは、マサダ(ユダヤ戦争で千人ものユダヤ人が篭城してローマ軍と戦ったといわれる要塞)を見学したあと、エルサレムを目指して車を走らせている途中、強い既視感のある洞窟に導かれるようにして入り込み、古い壺の中に入った巻物を掘り当てます。

ジョシュが巻物の文書を解読すると、驚いたことに、巻物の著者は、ヨシュア・ベン・ヨセフ(ヨセフの息子ヨシュア)、イエス・キリストその人であるようでした。

巻物のなかのイエスは、自分の教えが歪んだ形で後の世に伝わって悪用されることを予見し、それを避けるために、自らの死を迎える前にこれを書き残すことにしたと語っていました。

考古学者としての大発見の可能性に心を躍らせたジョシュは、イスラエル考古学庁(IAA)に連絡を取り、自分を調査メンバーに加えることを条件に巻物を引き渡したいと伝えます。

けれどもその直後から、ジョシュの周囲に怪しい影が見え始め、友人や同僚、警護を担当した人々が、次々と殺されていきます。

それらは、「ガーディアン」という狂信的グループによる犯行でした。
彼らの目的は、自分たちと同じ信仰を持たない人間全てを地上から消し去ることであり、その恐るべきジェノサイドの欲求は、何世代も続くカリスマ的な指導者によって広められ、世界各地の権力者層にまで浸透しているようでした。


「ガーディアン」の現在の指導者は、父親である先代指導者によって、筋金入りの狂信者として育てられていました。

彼は、危険なカルトの教祖の典型のような人物で、恐怖によってメンバーを洗脳支配し、他人の苦痛や死には一切の共感や痛みを覚えず、対立する考えを持つ人間を残虐に扱って恐怖でねじ伏せることを喜びとします。

その類いの人物には、たとえ物語の中であっても出会いたくないというのが、正直なところですけども、考えてみると新約・旧約の「聖書」の時代から、そういう権力者は繰り返し出現していたわけで、これはもう「人間」という種族が先天的に抱え込んでいる「病気」と考えたほうがいいのかもしれません。

現代医学が「狂信」をどのように捉えるのかについて、詳しくは知りませんが、パーソナリティ障害についてのさまざまな解説のなかに、客観性や整合性のない思想に固執し、それを「狂信」する人物像が書かれている場合があります。残虐行為を行ったとされる歴史上の独裁者たちも、そうした"症例"の一つとして紹介されていたりします。けれども、ヒトラーやヘロデ王が「患者」として医療現場に送られたとして、はたして治療、療育が可能なものかどうかは、想像もつきません。

さて、ジョシュの発見した巻物は、「ガーディアン」のように、キリスト教の教えを曲解してジェノサイドを引き起こす狂信者が現れることを危惧するものですから、もしもそれがイエス・キリスト自身の手になるものとして公表されることになれば、「ガーディアン」の存続自体が危ぶまれることになります。なので、彼らとしては、どうしても自分たちの手で巻物を回収し、内容を知る全員を粛正する必要があったのでした。


身内にも内通者がいるという状況にあって、ジョシュは、巻物の言葉が示唆する事柄と、自らの直感のみを支えに、「ガーディアン」のもくろみを打ち破ろうとします。


そういうスリリングな攻防の中で語られる、ジョシュの心情についての一節が、本作の中では、一番心に残りました。

人生には、傷ついた自負心などよりもっと大切なものがある。(p358)

彼は、かつて自分の業績を横取りした、憎むべき上司のことを、なつかしく思い出し、彼の名前を偽名として使うことまでしています。生きるか死ぬかという状況だからこそでしょうけれども、過去のしがらみをすっきりと手放したことに、共感を覚えました。


このくだりの少し前に、旧約聖書の詩篇(103篇)の一節が引用されていて、それも印象に残りました。


人の人生は草のよう。
いっときに花を咲かせ、そして萎れる。
風が通りすぎれば、枯れてしまう。
けれど、主を慕う花への主の愛は
いつまでも絶えることはない。
主よ、あなたの正さは
世々とこしえにつづきます。
今の世代がついに平和を知り、
すべての人々がひとつに結ばれますように。
(p349-350)



口語訳の聖書では、ここの箇所は次のようになっていました。

人は、そのよわいは草のごとく、
その栄えは野の花にひとしい。
風がその上を過ぎると、うせて跡なく、
その場所にきいても、もはやそれを知らない。
しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、
主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、
その契約を守り、
その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。
主はその玉座を天に堅くすえられ、
そのまつりごとはすべての物を統べ治める。
主の使たちよ、
そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、
主をほめまつれ。
主が造られたすべての物よ、そのまつりごとの下にあるすべての所で、主をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。

(口語訳 詩篇第103篇 15-22)


詩篇のほうでは、「すべての人々がひとつに結ばれますように」という意味の言葉はないので、そこのところは作者の創作、もしくは翻訳者による意訳なのかなと思います。


旧約聖書の時代の人々にとって、人の命は、いまの時代よりもはるかにはかなく、脆いものだったことでしょう。その脆さ、心細さを支えてくれるものとして、神様を頼り、深い信仰心を抱いたのかもしれません。


けれども、やすらぎと安寧を求める心から広まったはずの信仰が、世界中でさまざまな争いの元となり、人の命をいっそうはかなくしてしまうところに、なんともいえないやりきれなさがあります。

この作品に出てくるイエスの「巻物」は実在しないものですが、二千年前に、人々を愛し荒れた世の中を憂えた、心優しい預言者が、自分の教えが未来社会で大きな争いを引き起こさないようにと願ったとしても、そう不思議ではないように思われます。


作品の最後で、巻物が、大量殺戮の起きる未来を、具体的な日時つきで予告していることが明かされますが、いささか悪趣味な趣向で、そこは必要なかったかなと思いました。


さて…
どうしてもツッコミたかった部分は、主人公ジョシュの養父母についての設定です。



あれはちょうどジョギングから戻ったときだ、養父母が飛行機事故で死亡したという連絡を受けたのは。(p53)

養父母のエマニュエルとミリアムの顔が、目の前に現れては消えていく。自分が笑い声をあげながら、ふたりと走り回っている。遊んでいるのは裏庭で、自分は四歳、おそらく養父母が飛行機事故で死ぬ数ヶ月前のことだ。(P195)



四歳くらいの幼児が、「ジョギング」をするものなのか。(´・ω・`)

あるいは飛行機事故で死亡した「養父母」が一組ではなかったのか。

どこか、うっかり読み飛ばしてしまったのかとも思いましたが、本筋を揺るがす部分ではないので、あまり深く考えないことにします。







2019年1月14日月曜日

読書メモ…歯痛・抗菌剤


自殺した太宰治の追悼、というよりも、力の限りドヤしつけているようにも思える「不良少年とキリスト」は、坂口安吾のひどい歯痛の話から始まります。


 もう十日、歯がいたい。右頬に氷をのせ、ズルフォン剤をのんで、ねている。ねていたくないのだが、氷をのせると、ねる以外に仕方がない。ねて本を読む。太宰の本をあらかた読みかえした。
 ズルフォン剤を三箱カラにしたが、痛みがとまらない。是非なく、医者へ行った。一向にハカバカしく行かない。
「ハア、たいへん、よろしい。私の申上げることも、ズルフォン剤をのんで、氷嚢をあてる、それだけです。それが何より、よろしい」
 こっちは、それだけでは、よろしくないのである。
「今に、治るだろうと思います」
 この若い医者は、完璧な言葉を用いる。今に、治るだろうと思います、か。医学は主観的認識の問題であるか、薬物の客観的効果の問題であるか。ともかく、こっちは、歯が痛いのだよ。
 原子バクダンで百万人一瞬にたゝきつぶしたって、たった一人の歯の痛みがとまらなきゃ、なにが文明だい。バカヤロー。 
(青空文庫版「不良少年とキリスト」冒頭より) Amazonで見る



ものすごく、痛そうです(T_T)。


ここで気になるのは「ズルフォン剤」という、耳慣れない(目にも慣れない)薬剤。

どんなものだろうと思ってネット検索すると、現在では「サルファ剤」と言われる、抗菌剤のことだと分かりました。この薬剤の発見者であるドイツ人医師、ゲルハルト・ドーマクは、これによりノーベル医学賞を受賞したとのこと。


日本には昭和初期から輸入され、国内生産もされていたようです。  

太宰治が亡くなった昭和23年(1948年)の夏に、坂口安吾が何箱も買い込んで服用していたという「ズルフォン剤」のパッケージなどの写真資料がないかと思って検索してみましたが、見当たりませんでした。


昭和の日常生活については、近世以前よりもはるかにたくさん資料があるようでいて、こういう細かなところから、容赦なく分からなくなっていくように思います。





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2019年1月10日木曜日

太宰治「人間失格」 (仮病)



「人間失格」をはじめて読んだのは、三十代になってからでした。


その後も、何度となく読んでいるのですが、読むたびに、「こんなくだりがあっただろうか」と、新鮮な気持ちになる、不思議な小説です。


物語全体を覚えていられないのは、トシのせいで記憶が怪しくなっているせいもあるのでしょうけれども、そればかりでもない気がします。



合うたびに、顔の雰囲気や話す内容が変わってしまって、印象の安定しない人って、ときどきいますよね。


悪い人ではないような気がするけれど、かといって、いい人なのかどうかも、よく分からない人。

こちらが、「よくわからないけど、この人は、もしかしたら、こんなタイプの人かもしれない」と想像してみている、そのイメージをいつのまにか読み取って、意図的にそれに合わせてきている気配さえ見え隠れするような、奇妙で不気味な人物。


太宰治の「人間失格」は、本ですから人間ではありませんけれども、なんだかそういう振る舞いをする人格を持っているような気がしてなりません。

作者はとっくに亡くなっているのに、残されたこの作品は、まるで生きている人間のように意識を保っていて、しかも、いまだに「何者」にもなりきれない不安定な苦悩のなかに生きているつもりで、あれやこれやと、自分をそれらしく見せているのではないかとさえ、思われてきます。


怖い本です。




太宰治 「人間失格」青空文庫

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今回読んで気になったのは、主人公が心中未遂後の取り調べで、結核であるかのように装って、警察官を騙そうとするところでした。



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訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類をしたためながら、

「からだを丈夫にしなけりゃ、いかなね。血痰が出ているようじゃないか」

と言いました。

その朝、へんに咳が出て、自分は咳の出るたびに、ハンケチで口を覆っていたのですが、そのハンケチに赤い霰が降ったみたいに血がついていたのです。けれども、それは、喉から出た血ではなく、昨夜、耳の下に出来た小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。しかし、自分は、それをいい明さないほうが、便宜な事もあるような気がふっとしたものですから、ただ、

「はい」

と、伏眼になり、殊勝げに答えて置きました。


(引用終わり)
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さして悪辣でもない、保身のためという理由のついた、わざとらしい演技ですが、なんだかこの嘘が、読んでいて、妙に気持ちに引っかかりました。




ふと、「詐病」という言葉を思い出して、Wikiで説明を見てみました。


(以下、一部引用)


詐病(さびょう)とは、経済的または社会的な利益の享受などを目的として病気であるかのように偽る詐偽行為である。

類義語に仮病(けびょう)があるが、詐病とはニュアンスが異なる。

仮病は、欠席の理由付けなど、その場しのぎに行うものをいうことが多い。

これに対して詐病は、実利を目的とするものをいうことが多く、どちらかというと虚偽性障害(きょぎせいしょうがい)に近い。

また、類似の症例としてミュンヒハウゼン症候群があるが、これは周囲の関心を引くために行われるという点で詐病や仮病とは異なる。

 DSM-5には

「詐病は個人的な利益(金銭、休暇)などを得るために意図的に病状を訴えるという点で作為症とは異なる。対照的に、作為症の診断には明らかな報酬の欠如が必要である。」

と書かれている。

詐病・仮病という名称は、いずれも偽る行為をさす名称であり、これら自体は病名ではない。


(引用終わり)
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「人間失格」の人については、詐病、とまで言っていいのかどうか、判断に迷うところですが、病気であると相手に思わせることで、何らかの利益を得ようという意志があることは、間違いありません。なにしろ本人がそう語っています。

でも、具体的にどんな利益を得たかったのかは、本人もよく分かっていない様子です。


いずれにせよ、彼のもくろみは、聡明な検事との面談中に、打ち砕かれることとなります。



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しかし、その時期のなつかしい思い出の中にも、たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ悲惨なしくじりがあったのです。自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の簡単な取調べを受けました。検事は四十歳前後の物静かな、(もし自分が美貌だったとしても、それは謂わば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐の気配を持っていました)コセコセしない人柄のようでしたので、自分も全く警戒せず、ぼんやり陳述していたのですが、突然、れいの咳が出て来て、自分は袂からハンケチを出し、ふとその血を見て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましい駈引きの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけの贋の咳を大袈裟に附け加えて、ハンケチを口で覆ったまま検事の顔をちらと見た、間一髪、

「ほんとうかい?」

 ものしずかな微笑でした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。中学時代に、あの馬鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われて背中を突かれ、地獄に蹴落とされた、その時の思い以上と言っても、決して過言では無い気持ちです。あれと、これと、二つ、自分の生涯に於ける演技の大失敗の記録です。検事のあんな物静かな侮蔑に遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、時たまある程なのです。

(引用終わり)
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心中に失敗して、相手の女性に死なれたことよりも、咳の演出を見破られてしまった恥の思い出のほうを、よほど比重の重い出来事として語っている主人公の、人としてのいびつさ、おかしさが、息苦しいほど迫ってくるくだりです。


この人にとって、結核のふりをして、警察官や検事の同情を買ったり、社会的に有利に事を運ぶことなんか、実はどうでもよかったのだろうなと、ここを読むと察せられます。

そんなことより、自分の中の不確かさ、どんな人間であるのか自分ですら分からない、人間としてのグロテスクさを、他人に見抜かれないために、とりあえず血痰を見せて、それで相手を都合良く納得させておきたいと、無意識に思っているのかな、とも感じられます。

そこにあるのは、何をしても自分らしさを確信できない、不確かな人格を抱えながら生きていかなくてはならない苦痛であり、そこからくる根深い対人恐怖と、劣等感なのだろうと思います。


この「冷汗三斗」の思い出の直前に、こんな段落があります。



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 お昼過ぎ、自分は、細い麻縄で胴を縛られそれはマントで隠すことを許されましたが、その麻縄の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で横浜に向いました。

 けれとも、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、嗚呼、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ち着いて、その時の追憶を、いま書くに当たっても、本当にのびのびした楽しい気持ちになるのです。


(引用終わり)
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私には到底理解できない心境ですが、「罪人として縛られ」た状態こそが、この「人間失格」の主人公にとって、最も自分らしいと感じられるありかただったからなのだろうと想像されます。


麻縄で縛られた罪人になってしまえば、もうそれ以上、不確かな、何者でもない自分に苦しむこともないわけですから。




それにしても、今回、なんでこの「仮病」のくだりに、意識がひっかかったのかなと思います。


もしかしたら、「ペルソナ5」の影響かも……。
















三浦綾子「塩狩峠」(歩行障害・結核)

三浦綾子「塩狩峠」は、Kindle本でも読むことができますが、今回は、地域の図書館から小説選集を借りて読みました。紙の本も、よいものです。







キリスト教を信仰する青年が、自らの命を犠牲にして客車の脱線を食い止めたという実話に基づく物語です。

その悲痛な結末を知っていたので、長いこと原作を読む勇気が持てなかったのですが、先日、Kindleの無料抄録版(主人公の生い立ち部分のみ収録)が出ていたのを読んでみたところ、あまりにも面白かったので、図書館で本を借りて、残りを一気読みしました。


「塩狩峠」の主人公の死は、たしかに悲痛なものでした。

けれども、明治中期という時代のありさまとともに、じっくりと描かれた主人公の成長の過程や。家族とのかかわり、出会う人々との濃厚な交流の記憶が、作中での主人公の死を、ただ死んで失われてしまうだけの悲劇ではないものに変えていたと思います。


なかでも、治る見込みの薄い身体障害や、難病とともに生きることについての、深い思いが描かれているのが印象的でした。

主人公の永野信夫は、頑強な肉体の持ち主とは言えないものの、持病もなく、健康に暮らしていましたたが、目の前で祖母を失い、父にも早く死なれるなどの体験を経て、人の命がはかないものであることを否応なしに実感し、繊細な性格のせいもあって、深く思い悩みながら成長していきます。


信夫は、親友である吉川修(おさむ)の妹の、ふじ子という少女に、自分でも気づかないほどの淡い恋心を抱いていましたが、ふじ子は生まれつき足に障害があり、幼いころからいろいろな差別を受けていました。


吉川兄妹は家庭にもめぐまれず、ろくでもない父親がこしらえた借金のために、唐突に家族で、当時は「蝦夷」と呼ばれていた北海道へ移住することになるのですが、父親はまもなく病死。残された母親と修とで家計を支えるようになります。


大人になって再会した信夫と修は、障害を抱えながら、美しくおおらかに成長したふじ子について、二人で語り合います。妹を保護し慈しむだけでなく、独立した人間として、その存在そのものに敬意を抱く修の言葉に、信夫は大きく心を動かされます。



「そうだよ。考えてみると、永野君、今ふっと思いついたことだがね。世の病人や、不具者というのは、人の心をやさしくするために、特別にあるのじゃないかねえ」 
 吉川は目を輝かせた。吉川の言うことをよく飲みこめずに、信夫がけげんそうな顔をした。 
「そうだよ、永野君、ぼくはたった今まで、ただ単にふじ子を足の不自由な、かわいそうな者とだけ思っていたんだ。何でこんなふしあわせに生まれついたんだろうと、ただただ、かわいそうに思っていたんだ。だが、ぼくたちは病気で苦しんでいる人を見ると、ああかわいそうだなあ、何とかして苦しみが和らがないものかと、同情するだろう。もしこの世に、病人や不具者がなかったら、人間は同情ということや、やさしい心をあまり持たずに終わるのじゃないだろうか。ふじ子のあの足も、そう思って考えると、ぼくの人間形成に、ずいぶん大きな影響を与えていることになるような気がするね。病人や、不具者は、人間の心にやさしい思いを育てるために、特別の使命を負ってこの世に生まれて来ているんじゃないだろうか。 
 吉川は、熱して語った。 
「なるほどねえ。そうかもしれない。だが、人間は君のように、弱いものに同情する者ばかりだとはいえないからねえ。長い病人がいると、早く死んでくれればいいとうちの者さえ心の中では思っているというからねえ」 
「ああ、それは確かにあるな。ふじ子だって、小さい時から、足が悪いばかりに小さな子からもいじめられたり、今だって、さげすむような目で見ていく奴も多いからなあ」

(中略)

「じゃ、こういうことは言えないか。ふじ子たちのようなのは、この世の人間の試金石のようなものではないか。どの人間も、全く優劣がなく、能力も容貌も、体力も体格も同じだったとしたら、自分自身がどんな人間かなかなかわかりはしない。しかし、ここにひとりの病人がいるとする。甲はそれを見てやさしい心が引き出され、乙はそれを見て冷酷な心になるとする。ここで明らかに人間は分けられてしまう。ということにはならないだろうか」 
 吉川は考え深そうな目で、信夫の顔をのぞきこむように見た。信夫は深くうなずいた。うなずきながら、自分がきょう感じたバラの美しさを思い出していた。この地上のありとあらゆるものに、存在の意味があるように思えてならなかった。  (「塩狩峠」より引用)



作者の三浦綾子は大正十一年(1922年)生まれで、「塩狩峠」の執筆は、昭和四十一年(1966年)から始まったといいます。

昭和のその頃の日本は、まだ障害者に対する差別や偏見が厳しく、身内に障害や難病を持っただけでも、結婚に支障をきたすということが、当たり前のように起きていました。障害のある子供を産んだ母親が、夫やその親族に謝罪をするということも、めずらしくなかった時代です。


まして「塩狩峠」の舞台となっている明治の中ごろは、昭和よりもはるかに非寛容な世の中だったことが想像されます。貧富や身分の差による差別、外国人やキリスト教に対する根深い差別と偏見、東京から離れた地域に対する無知や差別意識など、作中でも、さまざまな差別が描かれています。


ふじ子の兄である修は、最愛の妹が良縁に恵まれることを心から願っていますが、それが難しいであろうことも十分に承知しています。

その上で、そういう困難を抱えた妹の存在を、周囲の人間の成長を促す試金石という、「特別の使命」を持つものと捉えようとする修と、その考えに自然に共感できる信夫は、当時の日本にあっては希有な若者だったろうと思います。


まだ年若いうちに「この地上のありとあらゆるものに、存在の意味がある」と感じた永野信夫は、ふじ子が結核を発病し、その闘病によりそううちに、キリスト教の信仰を持つようになります。

信夫はもともと、キリスト教には強い反感を持っていました。実の母親が敬虔なキリスト教徒であるがゆえに、西洋文化を嫌悪する祖母に家を追い出されたことや、祖母の死後に父親と復縁して戻ってきた母親と妹ばかりか、いつのまにか父親までもがキリスト教徒になっていたことを知って、家庭の中で強い疎外感を抱いていたのです。

自分の孤独はキリストのせいだと考えて、キリスト教に恨みすらもっていた信夫の心を動かしたのは、病を得て一層美しく勇敢な精神のままである、ふじ子の生き方でした。ふじ子もまたキリスト教の教えによって、救いの見えない闘病生活を支えられていたのでした。

修や信夫の、ふじ子に対する思いは、「この子らを世の光に」…その思いとともに、知的障害の子供たちの福祉と教育に尽力した、糸賀一雄という人の思想にも、通じるものであるように思います。糸賀一雄もキリスト教徒とのこと。


「塩狩峠」読了後、三浦綾子の自叙伝でもある「道ありき」を読むと、困難な病や障害を得た人生が、極めて意味深く、周囲の人の心をも豊かなものにしていく場合のあることを教えられます。作者が小説家であってくれてよかったと、心から思います。




これを書きながら調べていて知ったのですが、糸賀一雄「この子らを世の光に」は、Kindle版で復刊されていました。いずれちゃんと読んでみようと思います。