2019年1月10日木曜日

三浦綾子「塩狩峠」(歩行障害・結核)

三浦綾子「塩狩峠」は、Kindle本でも読むことができますが、今回は、地域の図書館から小説選集を借りて読みました。紙の本も、よいものです。







キリスト教を信仰する青年が、自らの命を犠牲にして客車の脱線を食い止めたという実話に基づく物語です。

その悲痛な結末を知っていたので、長いこと原作を読む勇気が持てなかったのですが、先日、Kindleの無料抄録版(主人公の生い立ち部分のみ収録)が出ていたのを読んでみたところ、あまりにも面白かったので、図書館で本を借りて、残りを一気読みしました。


「塩狩峠」の主人公の死は、たしかに悲痛なものでした。

けれども、明治中期という時代のありさまとともに、じっくりと描かれた主人公の成長の過程や。家族とのかかわり、出会う人々との濃厚な交流の記憶が、作中での主人公の死を、ただ死んで失われてしまうだけの悲劇ではないものに変えていたと思います。


なかでも、治る見込みの薄い身体障害や、難病とともに生きることについての、深い思いが描かれているのが印象的でした。

主人公の永野信夫は、頑強な肉体の持ち主とは言えないものの、持病もなく、健康に暮らしていましたたが、目の前で祖母を失い、父にも早く死なれるなどの体験を経て、人の命がはかないものであることを否応なしに実感し、繊細な性格のせいもあって、深く思い悩みながら成長していきます。


信夫は、親友である吉川修(おさむ)の妹の、ふじ子という少女に、自分でも気づかないほどの淡い恋心を抱いていましたが、ふじ子は生まれつき足に障害があり、幼いころからいろいろな差別を受けていました。


吉川兄妹は家庭にもめぐまれず、ろくでもない父親がこしらえた借金のために、唐突に家族で、当時は「蝦夷」と呼ばれていた北海道へ移住することになるのですが、父親はまもなく病死。残された母親と修とで家計を支えるようになります。


大人になって再会した信夫と修は、障害を抱えながら、美しくおおらかに成長したふじ子について、二人で語り合います。妹を保護し慈しむだけでなく、独立した人間として、その存在そのものに敬意を抱く修の言葉に、信夫は大きく心を動かされます。



「そうだよ。考えてみると、永野君、今ふっと思いついたことだがね。世の病人や、不具者というのは、人の心をやさしくするために、特別にあるのじゃないかねえ」 
 吉川は目を輝かせた。吉川の言うことをよく飲みこめずに、信夫がけげんそうな顔をした。 
「そうだよ、永野君、ぼくはたった今まで、ただ単にふじ子を足の不自由な、かわいそうな者とだけ思っていたんだ。何でこんなふしあわせに生まれついたんだろうと、ただただ、かわいそうに思っていたんだ。だが、ぼくたちは病気で苦しんでいる人を見ると、ああかわいそうだなあ、何とかして苦しみが和らがないものかと、同情するだろう。もしこの世に、病人や不具者がなかったら、人間は同情ということや、やさしい心をあまり持たずに終わるのじゃないだろうか。ふじ子のあの足も、そう思って考えると、ぼくの人間形成に、ずいぶん大きな影響を与えていることになるような気がするね。病人や、不具者は、人間の心にやさしい思いを育てるために、特別の使命を負ってこの世に生まれて来ているんじゃないだろうか。 
 吉川は、熱して語った。 
「なるほどねえ。そうかもしれない。だが、人間は君のように、弱いものに同情する者ばかりだとはいえないからねえ。長い病人がいると、早く死んでくれればいいとうちの者さえ心の中では思っているというからねえ」 
「ああ、それは確かにあるな。ふじ子だって、小さい時から、足が悪いばかりに小さな子からもいじめられたり、今だって、さげすむような目で見ていく奴も多いからなあ」

(中略)

「じゃ、こういうことは言えないか。ふじ子たちのようなのは、この世の人間の試金石のようなものではないか。どの人間も、全く優劣がなく、能力も容貌も、体力も体格も同じだったとしたら、自分自身がどんな人間かなかなかわかりはしない。しかし、ここにひとりの病人がいるとする。甲はそれを見てやさしい心が引き出され、乙はそれを見て冷酷な心になるとする。ここで明らかに人間は分けられてしまう。ということにはならないだろうか」 
 吉川は考え深そうな目で、信夫の顔をのぞきこむように見た。信夫は深くうなずいた。うなずきながら、自分がきょう感じたバラの美しさを思い出していた。この地上のありとあらゆるものに、存在の意味があるように思えてならなかった。  (「塩狩峠」より引用)



作者の三浦綾子は大正十一年(1922年)生まれで、「塩狩峠」の執筆は、昭和四十一年(1966年)から始まったといいます。

昭和のその頃の日本は、まだ障害者に対する差別や偏見が厳しく、身内に障害や難病を持っただけでも、結婚に支障をきたすということが、当たり前のように起きていました。障害のある子供を産んだ母親が、夫やその親族に謝罪をするということも、めずらしくなかった時代です。


まして「塩狩峠」の舞台となっている明治の中ごろは、昭和よりもはるかに非寛容な世の中だったことが想像されます。貧富や身分の差による差別、外国人やキリスト教に対する根深い差別と偏見、東京から離れた地域に対する無知や差別意識など、作中でも、さまざまな差別が描かれています。


ふじ子の兄である修は、最愛の妹が良縁に恵まれることを心から願っていますが、それが難しいであろうことも十分に承知しています。

その上で、そういう困難を抱えた妹の存在を、周囲の人間の成長を促す試金石という、「特別の使命」を持つものと捉えようとする修と、その考えに自然に共感できる信夫は、当時の日本にあっては希有な若者だったろうと思います。


まだ年若いうちに「この地上のありとあらゆるものに、存在の意味がある」と感じた永野信夫は、ふじ子が結核を発病し、その闘病によりそううちに、キリスト教の信仰を持つようになります。

信夫はもともと、キリスト教には強い反感を持っていました。実の母親が敬虔なキリスト教徒であるがゆえに、西洋文化を嫌悪する祖母に家を追い出されたことや、祖母の死後に父親と復縁して戻ってきた母親と妹ばかりか、いつのまにか父親までもがキリスト教徒になっていたことを知って、家庭の中で強い疎外感を抱いていたのです。

自分の孤独はキリストのせいだと考えて、キリスト教に恨みすらもっていた信夫の心を動かしたのは、病を得て一層美しく勇敢な精神のままである、ふじ子の生き方でした。ふじ子もまたキリスト教の教えによって、救いの見えない闘病生活を支えられていたのでした。

修や信夫の、ふじ子に対する思いは、「この子らを世の光に」…その思いとともに、知的障害の子供たちの福祉と教育に尽力した、糸賀一雄という人の思想にも、通じるものであるように思います。糸賀一雄もキリスト教徒とのこと。


「塩狩峠」読了後、三浦綾子の自叙伝でもある「道ありき」を読むと、困難な病や障害を得た人生が、極めて意味深く、周囲の人の心をも豊かなものにしていく場合のあることを教えられます。作者が小説家であってくれてよかったと、心から思います。




これを書きながら調べていて知ったのですが、糸賀一雄「この子らを世の光に」は、Kindle版で復刊されていました。いずれちゃんと読んでみようと思います。




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