2019年1月10日木曜日

太宰治「人間失格」 (仮病)



「人間失格」をはじめて読んだのは、三十代になってからでした。


その後も、何度となく読んでいるのですが、読むたびに、「こんなくだりがあっただろうか」と、新鮮な気持ちになる、不思議な小説です。


物語全体を覚えていられないのは、トシのせいで記憶が怪しくなっているせいもあるのでしょうけれども、そればかりでもない気がします。



合うたびに、顔の雰囲気や話す内容が変わってしまって、印象の安定しない人って、ときどきいますよね。


悪い人ではないような気がするけれど、かといって、いい人なのかどうかも、よく分からない人。

こちらが、「よくわからないけど、この人は、もしかしたら、こんなタイプの人かもしれない」と想像してみている、そのイメージをいつのまにか読み取って、意図的にそれに合わせてきている気配さえ見え隠れするような、奇妙で不気味な人物。


太宰治の「人間失格」は、本ですから人間ではありませんけれども、なんだかそういう振る舞いをする人格を持っているような気がしてなりません。

作者はとっくに亡くなっているのに、残されたこの作品は、まるで生きている人間のように意識を保っていて、しかも、いまだに「何者」にもなりきれない不安定な苦悩のなかに生きているつもりで、あれやこれやと、自分をそれらしく見せているのではないかとさえ、思われてきます。


怖い本です。




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今回読んで気になったのは、主人公が心中未遂後の取り調べで、結核であるかのように装って、警察官を騙そうとするところでした。



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訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類をしたためながら、

「からだを丈夫にしなけりゃ、いかなね。血痰が出ているようじゃないか」

と言いました。

その朝、へんに咳が出て、自分は咳の出るたびに、ハンケチで口を覆っていたのですが、そのハンケチに赤い霰が降ったみたいに血がついていたのです。けれども、それは、喉から出た血ではなく、昨夜、耳の下に出来た小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。しかし、自分は、それをいい明さないほうが、便宜な事もあるような気がふっとしたものですから、ただ、

「はい」

と、伏眼になり、殊勝げに答えて置きました。


(引用終わり)
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さして悪辣でもない、保身のためという理由のついた、わざとらしい演技ですが、なんだかこの嘘が、読んでいて、妙に気持ちに引っかかりました。




ふと、「詐病」という言葉を思い出して、Wikiで説明を見てみました。


(以下、一部引用)


詐病(さびょう)とは、経済的または社会的な利益の享受などを目的として病気であるかのように偽る詐偽行為である。

類義語に仮病(けびょう)があるが、詐病とはニュアンスが異なる。

仮病は、欠席の理由付けなど、その場しのぎに行うものをいうことが多い。

これに対して詐病は、実利を目的とするものをいうことが多く、どちらかというと虚偽性障害(きょぎせいしょうがい)に近い。

また、類似の症例としてミュンヒハウゼン症候群があるが、これは周囲の関心を引くために行われるという点で詐病や仮病とは異なる。

 DSM-5には

「詐病は個人的な利益(金銭、休暇)などを得るために意図的に病状を訴えるという点で作為症とは異なる。対照的に、作為症の診断には明らかな報酬の欠如が必要である。」

と書かれている。

詐病・仮病という名称は、いずれも偽る行為をさす名称であり、これら自体は病名ではない。


(引用終わり)
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「人間失格」の人については、詐病、とまで言っていいのかどうか、判断に迷うところですが、病気であると相手に思わせることで、何らかの利益を得ようという意志があることは、間違いありません。なにしろ本人がそう語っています。

でも、具体的にどんな利益を得たかったのかは、本人もよく分かっていない様子です。


いずれにせよ、彼のもくろみは、聡明な検事との面談中に、打ち砕かれることとなります。



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しかし、その時期のなつかしい思い出の中にも、たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ悲惨なしくじりがあったのです。自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の簡単な取調べを受けました。検事は四十歳前後の物静かな、(もし自分が美貌だったとしても、それは謂わば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐の気配を持っていました)コセコセしない人柄のようでしたので、自分も全く警戒せず、ぼんやり陳述していたのですが、突然、れいの咳が出て来て、自分は袂からハンケチを出し、ふとその血を見て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましい駈引きの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけの贋の咳を大袈裟に附け加えて、ハンケチを口で覆ったまま検事の顔をちらと見た、間一髪、

「ほんとうかい?」

 ものしずかな微笑でした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。中学時代に、あの馬鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われて背中を突かれ、地獄に蹴落とされた、その時の思い以上と言っても、決して過言では無い気持ちです。あれと、これと、二つ、自分の生涯に於ける演技の大失敗の記録です。検事のあんな物静かな侮蔑に遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、時たまある程なのです。

(引用終わり)
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心中に失敗して、相手の女性に死なれたことよりも、咳の演出を見破られてしまった恥の思い出のほうを、よほど比重の重い出来事として語っている主人公の、人としてのいびつさ、おかしさが、息苦しいほど迫ってくるくだりです。


この人にとって、結核のふりをして、警察官や検事の同情を買ったり、社会的に有利に事を運ぶことなんか、実はどうでもよかったのだろうなと、ここを読むと察せられます。

そんなことより、自分の中の不確かさ、どんな人間であるのか自分ですら分からない、人間としてのグロテスクさを、他人に見抜かれないために、とりあえず血痰を見せて、それで相手を都合良く納得させておきたいと、無意識に思っているのかな、とも感じられます。

そこにあるのは、何をしても自分らしさを確信できない、不確かな人格を抱えながら生きていかなくてはならない苦痛であり、そこからくる根深い対人恐怖と、劣等感なのだろうと思います。


この「冷汗三斗」の思い出の直前に、こんな段落があります。



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 お昼過ぎ、自分は、細い麻縄で胴を縛られそれはマントで隠すことを許されましたが、その麻縄の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で横浜に向いました。

 けれとも、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、嗚呼、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ち着いて、その時の追憶を、いま書くに当たっても、本当にのびのびした楽しい気持ちになるのです。


(引用終わり)
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私には到底理解できない心境ですが、「罪人として縛られ」た状態こそが、この「人間失格」の主人公にとって、最も自分らしいと感じられるありかただったからなのだろうと想像されます。


麻縄で縛られた罪人になってしまえば、もうそれ以上、不確かな、何者でもない自分に苦しむこともないわけですから。




それにしても、今回、なんでこの「仮病」のくだりに、意識がひっかかったのかなと思います。


もしかしたら、「ペルソナ5」の影響かも……。
















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