2019年10月5日土曜日

読書メモ……池内紀「自伝的万葉の旅」  (まだら認知症)



思いがけない本のなかで、認知症に出会った。




僧侶の叔父は東大寺の役僧街道をのぼりつめ、二期管長をつとめ、大仏殿大修理の大業をやっとのけた。長老に退いてから急速に衰えがあったものと思われる。書画に秀でた高僧ということで芸術雑誌が特集を組むことになり、たのまれて伯父・甥対談を引き受けた。久しぶりに対面した甥に伯父は言った。 
「お母ちゃん、元気か?」 
何十年も前に死んだ妹である。唖然として、まじまじと顔を見た。唇をつき出して、いたずら小僧のようにタバコをすっている。そのうち判明したが、現状に即したことと、ずっと昔とが、バラバラにつながっている。俗にいう「まだらボケ」で、録音をとって帰った編集長が悲鳴のような声で支離滅裂を知らせてきた。 
「心配いりません」 
 甥は実物にかまわず、健在なころの伯父を再現して、インタビューをまとめた。やがて伯父は体面を損なわないうちにシセツに入り、五年して死んだ。


池内紀 「自伝的万葉の旅」 角川新書 『万葉集の詩性(ポエジー)』






認知症というと、アルツハイマーをすぐに思い浮かべるけれども、「まだらボケ」と言われる認知症は、アルツハイマー型ではなく、脳梗塞などの血管性の病気に由来するものであると、あちらこちらの医療・介護系のサイトで説明されている。


アルツハイマー型では、さまざまな症状が緩やかに進んでいくけれど、血管性認知症では、何かがふとできなくなったかと思うと、少しあとには以前通りにできたりするのだそうだ。


また、血管性認知症では、記憶の不具合による支離滅裂さはあっても、その人らしさは大きく損なわれず、若いころと変わらない理解力や、知的な鋭さは残るのだという。

そんなふうに、能力の衰え方、損なわれ方が「まだら」だから、そういう呼び名が付いたのだろう。

もっとも、アルツハイマー型に血管性認知症が併発することもあるそうだから、すっぱりと症状が分かれるというものでもないのだろう。


池内紀氏の伯父が、どちらのタイプだったかは、この文章だけでは分からない。



東大寺大仏殿の昭和の大修理を行った管長は、清水公照という方だそうだ。


NHK人物録 清水公照

ウィキペディア 清水公照



書画が見てみたいと思って探したら、ヤフオクにたくさん出品されていて、まるで美術館の特別展のような様相を呈していた。




引用した文章のなかで、気になった表現がある。


「やがて伯父は体面を損なわないうちにシセツに入り」


「施設」ではなく「シセツ」とカタカナ表記する理由は、なんだろう。


直前の「体面を損なわないうちに」ということばのせいで、どうもなんというか、不都合なものに覆いをするための仕組み、のような意味合いが感じられてしまう。


こういうところで差別意識を指摘するような言葉狩りがしたいわけではないし、池内紀氏のコトバ使いに対して批判をしたいわけでもない。


ただ、介護施設と書かずに「シセツ」とという表記を選ぶ心情には、少なくとも、あまりいい気持のものを感じない。少なくとも介護の当事者(する人とされる人)への敬意は、全く感じられない。だから、私は使わない。













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