2019年10月10日木曜日

燃える胸の火(樋口一葉「闇桜」「樋口一葉日記」)


樋口一葉の「闇桜」という小説は、幼なじみへの恋心を自覚した少女が、その思いのために病気になり、衰弱して死んでしまうという物語だ。

失恋したわけでもなければ、周囲に反対されたわけでもない。

ただただ、思い焦がれて自滅するという、致死的な恋の病である。


中村千代と園田良之助は、家が隣同士で、兄妹のように親しく育った仲だった。

千代が十六歳になり、近所でも評判の美女と噂されるほどになっても、二人の仲はままごと遊びのころから変わらず、無邪気なものだった。

ところが、ある日、二人が連れ立って歩いているところを、千代の学友たちに見つかり、良之助の前で揶揄されてしまう。

中村さんと唐突(だしぬけ)に背中をたたかれてオヤと振り返へれば束髪の一群(ひとむれ)何と見てかおむつましいことと無遠慮の一言たれが花の唇をもれし詞(ことば)か跡は同音の笑ひ声夜風に残して走り行くを千代ちやん彼(あれ)は何だ学校の御朋友(ともだち)か随分乱暴な連中だなアとあきれて見送る良之助より低頭(うつむ)くお千代は赧然(はなじろ)めり
(樋口一葉「闇桜」)

ほとんど古文なので、現代語訳してみる。


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「ナカムラさーん」

いきなり背中をバシッとたたかれた千代が、驚いて振り向くと、クラスメートの数人が、ニヤニヤしながらこちらを見ている。

「カレシいたんだ。ヤケるぅ」
「ウケるー」

それだけ言うと、キャハハハハと品のない笑い声を響かせながら、走って行ってしまった。

「何だあれ。千代ちゃんの学校の友達? ずいぶん軽い連中だな」

と、良之助があきれ顔で見送る横で、千代はうつむいて、恥ずかしさに耐えていた。


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この日から、千代は、まともに眠ることができなくなる。



涙しなくばと云ひけんから衣胸のあたりの燃ゆべく覚えて夜はすがらに眠られず思に疲れてとろとろとすれば夢にも見ゆる其人の面影優しき手に背(そびら)を撫でつつ何を思ひ給ふぞとさしのぞかれ君様ゆゑと口元まで現の折の心ならひにいひも出でずしてうつむけば隠し給ふは隔てがまし大方は見て知りぬ誰れゆゑの恋ぞうら山しと憎くや知らず顔のかこち事余の人恋ふるほどならば思ひに身の痩せもせじ御覧ぜよやとさし出す手を軽く押へてにこやかにさらば誰をと問はるるに答えんとすれば 暁の鐘枕にひびきて覚むる外なき思ひ寝の夢鳥がねつらきはきぬぎぬの空のみかは惜しかりし名残に心地常ならず今朝は何とせしぞ顔色わろしと尋ぬる母はその事さらに知るべきならねど
(樋口一葉「闇桜」)



まるっきり古文なので、こちらも現代語訳を試みる。



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「君恋ふる涙しなくは唐衣むねのあたりは色燃えなまし」


報われることのない恋のために流す、この涙が胸を濡らしていなければ、私の胸は、恋の炎で燃え上がってしまっているにちがいない……


古今和歌集の紀貫之の歌そのままに、千代は胸が燃えるような苦しみのために、夜の間ずっと眠れずにいた。

疲れ切って、やっとうとうとしたかと思うと、夢の中にまで良之助が現れて、やさしく背中をなでてくれる。そのやさしさが、つらくてたまらない。

「ねえ千代ちゃん、何を悩んでるの?」

あなたが好きすぎてつらいと、まさか口に出すこともできず、うつむいていると、

「秘密主義か。よそよそしいなあ。でも、見ていればわかるよ。好きな男ができたんだろ? 千代ちゃんも、隅に置けないな。相手、誰だよ」

「ちがうってば。ただの恋煩いくらいで、こんなに痩せるはずないでしょ」

そう言いながら千代が差し出す手に、そっと触れて、ほほえみながら良之助は重ねて聞いてくる。

「だから誰? 俺の知ってるヤツかな」

もう告白してしまおうかと、千代が口を開こうとしたとたん、夜明けを告げる鐘が響き渡って、目がさめてしまう。

現実の逢瀬の後でもないのに、消えてしまった夢のなかの良之助が恋しくて、千代はすっかり体調を崩してしまった。事情を知らない母が、

「どうしたの? 今朝はずいぶん顔色が悪いけれど」

と心配して声をかけてくるけど……


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千代には、良之助のなかに、自分の思いに釣り合うほどの恋愛感情がないことがわかっている。

良之助にとっての千代は、ただの幼なじみであり、かわいい妹でしかなかった。

もうすこし月日がたてば、良之助も、千代を一人の女性として、恋愛や結婚の相手として見る日が来たかもしれない。


けれども、未来に希望を抱いて待つことができるほど、千代の心身は丈夫ではなかった。


睡眠障害と抑うつから回復することのないまま、衰弱しきった千代は、危篤状態になる。

容態が急変する前日、千代の家の者から事情を聴いて、はじめて千代の思いを知った良之助は、自分のせいで千代が死につつあることに衝撃を受け、もう少し早く知っていれば、こんなふうにはさせなかったのにと、深く悔やむ。




樋口一葉が「闇桜」を書いたのは、1892年(明治25年)。

半井桃水に師事し、恋愛関係であるとしてスキャンダルになったのも、そのころだ。


樋口一葉の日記に、半井桃水との交流や、桃水への一葉の思いが書かれているというので、国会図書館のデジタルデータを探し出して、少し読んでみた。以下は、ざざっと書き写したもの。


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廿七日 全約の小説稿成しをもて桃水ぬしにおもむく。今日は我例刻より遅かりしをもて、君既におはしき。種々(くさぐさ)我爲(わがため)よかれのものがたりども聞こえしらせ給ふ。帰宅し侍らんとする時に、いましばし待給へ、君に参らせんとて今料理させおくものの侍ればとまめやかにの給ふを、例のあらくもいろひかねて其ままとどまる。やがて料理は出来ぬ、こは朝せん元山(げんざん)の鶴なりとなり。さる遠方のものと聞くにこと更にめでたし。たふべ終れば君いでや帰り給へよ、あまりくらく成やし侍らんなど聞こえ給ひて、今日もみ車たまはりぬ。かえりしは七時。


(「一葉日記集」上巻  国立国会図書館デジタルコレクション)

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言うまでもなく、猛烈に古文なので、現代語訳を試みる。


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27日、以前からお約束していた小説の原稿ができたので、桃水さまのお宅を訪問する。

今日はいつもよりも遅い時間の訪問となってしまったので、桃水さまは、すでにご帰宅されていた。

桃水さまは、私のためになるようにと、いろいろなお話を聞かせてくださった。

お話の区切りのいいところで、そろそろお暇させていただこうと思ったところ、桃水さまがおっしゃった。

「もうちょっと、帰らないでいてくれるかな。あなたに食べさせたくて、いま料理させているものがあるから」

と、やさしいお志のこもった言葉で引き留められたので、強くお断りすることもできず、そのまま居続けることに。

そのうち料理ができて、運ばれてきた。

「これはね、朝鮮の元山というところでとれた、鶴なんだ」

そんな遠いところ珍しいものを、私のために用意して、ごちそうしてくださるのかと思うと、なおさら心ときめいてしまう。


「食べ終わったかい? それなら、遅くならないうちに、お帰りなさい。あまり暗くなってしまっては、物騒だからね」

桃水さまは、そうおっしゃって、今日も車を呼んでくださった。帰宅したのは夜七時。


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半井桃水さん、ほんとうに親切で、細やかな男性だったようである。


そのやさしさの性質は、「闇桜」の良之助に通じるものがあるように思える。


半井桃水と一葉との交際は、スキャンダルになり、周囲に強く反対されたことで、破局を迎えたという。


「闇桜」の千代の思いが、作者自身の思いに重なるものだったかどうかは、私にはわからない。

その4年後の 1896年(明治29年)、一葉は、肺結核のために、24歳で亡くなっている。










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