2018年4月4日水曜日

読書日記…田島昭宇と大塚英志と、笙野頼子…



田島昭宇の「魍魎戦記MADARA」というマンガを愛読したことがきっかけで、原作者の大塚英志という人の存在を知ったのだけども、その後はじまった田島昭宇作画・大塚英志原作の連載「多重人格探偵サイコ」がどうしても読めず、ほとんど強烈な嫌悪症に近い状態となってしまったので、それから20年近く田島昭宇の作品には近寄らなくなりました。
(書店で背表紙を見かけてもサッと顔を背けるレベル)


田島昭宇氏の絵、好きだったのに…。








いまウィキペディアの「多重人格探偵サイコ」のページをみたら、さもありなんというエピソードが載っていました。(以下引用)



第1話で主人公の恋人の女性が、両手両足を切断された状態で宅配便で箱詰めして届けられるという描写がある。これを見た角川書店の役員が印刷機を止め、当初1997年1月号から連載が始まる予定が2月号からになるというアクシデントで始まった。
猟奇殺人を描き、リアルな死体描写、グロテスクで残酷な描写が非常に多い。その描写ゆえ2006年に茨城県、2007年に香川県・岩手県で、2008年に福島県・大分県・長崎県で青少年保護育成条例に基づく有害図書に指定されている。


振り返って考えるに、「多重人格探偵サイコ」という作品に対する私の嫌悪症は、残虐に肉体を破壊する描写そのものに対してではなく(岩田明「寄生獣」は全く平気でしたし)、なにかこう、そういうものを敢えて前面に出し、タブーを破ることや、人の目をおどろかすようなことをして傾(かぶ)いてみせるかのような、いやな気配を感じたところから発したように思います。


もちろん、全巻を読んでもいない私が、作品自体の価値や意味を論じたり断じたりすることはできませんので、「嫌でした」というにとどめます。


多重人格…解離性同一障害の当事者や関係者にとって、この作品の存在はどうだったのだろうかということも、ちょっと気になるところですが、わからないので保留。



残虐な殺人事件は、わざわざ創作物で読まなくても、現実に起きているものだけで十分というのが正直なところです。それだって、もう一件も起きてほしくはありません。


奇しくも「多重人格探偵サイコ」が完結した2016年には、あの相模原障害者施設殺傷事件が起きています。


事件の残虐さ、痛ましさには胸がつぶれるような思いをしましたが、それ以上に恐ろしかったのは、重度の障害者が「生きる」ことに対する、世間の人々の身も蓋もない損得勘定でした。

個人の生産性で生きる価値を計ろうとするような言葉に歯止めのきかない社会であること、その気持ち悪さに立ち向かうのに、普通の善意や好意、既存の道徳観などでは、どうにも力不足であるように思いました。それらは、

「だって、税金の無駄でしょ?」

のひと言でなぎ倒されてしまうことに対して、あるいはそのひと言でなぎ倒せると感じる、不特定多数の分厚い層に対して、有力な反撃のパワーを持たないように思えました。

そういうやりきれない状況にあって、一方的に否定され、殺される側、障害者の側に立って手弁当で戦ってくれるものがあるとすれば、哲学であり、(純)文学であるように私には思えました。

例えば、笙野頼子氏の「未闘病記」の、末尾近くに書かれた次のような言葉は、(重度知的障害者の親である)私にとっては、力強い味方のように思えたのです。

 ひとりの人間がただ生きている。その内面はひとつの独立した宇宙である。不当な洗脳なしにこの自立性を変えることは難しい。つまり、その自立性に依って思考していれば、言葉を使っていれば、そしてその言葉に意味や芸術があれば、その人は孤独ではない。社会とともにあり、参加している。かつ、その人の脳内に発生した共感や想像力は本人の行動、表現によって他に影響を与えるのだ。

 そもそも心は体に対して無力であろうか。ひとりでいる事は不毛だろうか。
 人は関係性だけに縛られる必要などない。どこか王のような強い心を持たなければ不可能かもしれないが。 


笙野頼子 「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用



 例えば、ひとりぼっちで生きている人には生きている価値がないのか、労働していない或いは「なにもしてない」人間には社会も意味もないのか。孤立だけなのか。そんな事はない。人間といない時も人は言葉を使い神に祈り猫と眠る、持病に悩まされる。そんな折々、その人の心は動いている、内面はある。そこから社会に出て行く、というか彼は言語や内面により、社会化されている。

 人は「ひとりぼっち」でも社会と関わり合える。外界に対峙できる。社会の片隅で生まれた内面の幸福は誰に知られずとも本人の心の中にはある。
 かつ、これらの内面は人間関係から生まれるのではなく、根本的には所有という制度から発したものである。人間は自分の肉体を所有し、土地を所有し、自分の言葉を使い、私、自分となる。また、国家や権力に対抗することで形成されていく自分もある。 
 その中で人は自分のテリトリーを求め、他者の財産を奪えば時に罪悪感に戦く。また時には自分の土地を愛し耕し、わが身のように守り、天災に脅える。その土地に神を祀り、死後を想像し、祈るものは祈る。これらは、社会的関係には還元できない。個人の居場所に、その所有物において発生することだ。

笙野頼子 「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用


笙野頼子氏と大塚英志氏の「純文学論争」について、ウィキの説明を読むと、純文学が障害者と重なってきてしまうのは、感傷的にすぎる発想かもしれません。でも、


1998年頃、大塚英志が1980年代に主張した「売れない純文学は商品として劣る」との主張に対して笙野頼子は抗議した。そこには、当時の読売新聞で文芸時評が評論家ではなく新聞記者によってなされたこと、『文藝春秋』誌上で直木賞作家数名による座談会で〈売れない小説には価値がない〉という趣旨の発言がなされたこともきっかけとなっていた。 (ウィキベデア「純文学論争」の項より引用)

ここで言われていることを、同じような発想の「働けない○○は人間として劣る」に、ちょこっと入れ替えてみたりすると、いま問題になっている過労死問題、ブラック企業問題など、いろんなものが芋づるのようにずるずるとひっかかって顔を見せるわけで、それらを全部ひきずりだして晒した先には、「純文学」を「売れない」「つまらない」「役に立たない」ものとして、人間存在の根幹そのものといっしょくたに貶めようとしているものと同根の、人を生かさない考え方そのものがあるような気がしてきます。


それでも、売れない純文学の出版(文芸誌の発行など)を維持することが、売れるジャンルの作品を圧迫しているというのが事実なら、なんとかしてほしいところではあります。

文芸雑誌は私も滅多に買いませんし、芥川賞受賞作も野間文芸賞受賞作も、電子本で読んでいます。

多くの人がスマホやiPhoneや読書用端末で小説やマンガを読む時代なのですから、そっちの方向に積極的に切り替えることで、圧迫を軽減できないものなのかと。業界の事情を知らない者の戯言ですけれども。



あと、「魍魎戦記MADARA」は、紙の豪華本で再版ではなく、ぜひとも電子化してほしいです。(豪華本、高すぎです…orz)









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