2019年10月31日木曜日

直木三十五のひどい伝記と、あまりにもたくさんの病気 



直木賞は知っていても、賞の由来である、直木三十五の作品を一つも読んだことがなかったし、そもそもどんな作品があるのかも、全く知らなかった。

青空文庫に直木作品がいくつか入っているので、「死までを語る」(青空文庫)という作品を、ダウンロードして、読み始めてみた。



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 全く私は、頭と、手足とを覗く外、胴のことごとくに、病菌が生活している。肺結核、カリエス、坐骨神経痛、痔と----痔だけは、癒ったが、神経痛の為、立居も不自由である。カリエスは、大した事がなく、注射で、癒るらしいが、肺と、神経痛は、頑強で、私は時々、倶楽部の三階の自分の部屋へ、這うて上る事がある。 
 私が、平素の如く、健康人の如く、歩き、書き、起きしているから、大した事であるまいと、人々は見ているらしいが、五尺五寸の身長で、十一貫百まで、痩せたのだから、相当の状態らしい。 
 そして、何の療養もせず、注射をしているだけであるから、或は、この賢明なる青年たちが、見通した如く、私は、来年の何月かに、死ぬかもしれない。 
 ただ、齢が齢故、病状の進行が遅いし、意地張りで、こんな病気位と、大して気にも止めていないから、大変、青年たちは見込み外れをするかもしれないが、それは、今の所、何っちとも云えないであろうと思う。 
(直木三十五「死までを語る」青空文庫)


なんだか、病気の見本市みたいな人である。


文中の「この賢明なる青年たち」というのは、直木三十五にこの文章を依頼した出版社の編集者たちのことである。

直木は彼らの思惑について、次のように類推している。


私は、今年四十二年六ヵ月だから「全半生」と同一年月、後半生も生き長らえるものなら、私は八十五歳まで死なぬ事にな。これはたぶん、編輯局で、青年達が

「直木も、そう長くは無いらしいから、今の内に、前半生記みたいなものを、書かしては何うだろう」

 と、云って、決まった事にちがいない。そして、大草実は 
(長くて一年位しか保つまいから、丁度、これの終る頃くたばる事になると、編輯価値が素敵だ)

 と、考えたのであろう。 
(直木三十五「死までを語る」青空文庫)




ブラックジョークなのか、本気の皮肉なのか、よくわからない。


書かれた青年編集者たちは、冷や汗をかいたのじゃなかろうかと思うけれども、こういうやりとりが平気なほど、親しい間柄だったのかもしれない。


一体どんな人生を歩んだ人だったのだろうと思って、「死までを語る」の冒頭だけ読んだところで、ウィキペディアの「直木三十五」のページを読んでみた。


ひどかった。


1925年(大正14年)、マキノ・プロダクション主催のマキノ省三家に居候する。マキノ省三に取り入って、映画制作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成。映画製作にのめりこむ。 
1927年(昭和2年)、マキノに出資させて製作した映画群が尽く赤字に終わり、「キネマ界児戯に類す」(映画など子供の遊びだ)と捨て台詞を吐いて映画界から撤退。同年、マキノプロの大作『忠魂義烈 ・實録忠臣蔵』の編集中に失火しマキノ邸が全焼すると、火事場見舞いに訪れた直木はマキノから小遣いを貰ったうえ、「マキノはこれで潰れる」と喧伝。これがマキノのスタア大量脱退の一因となる。 


ここだけ読んだら、まるで、恩人にたかる疫病神である。

マキノ省三の息子である、マキノ雅弘は、自宅に居候して金をたかる直木三十五について、次のように語っているという。


このころ直木は朝から晩まで着物をぞろりとひっかけるように着て、マキノ雅弘をつかまえると「おい、マサ公」と決まって用をいいつけた。金もないのに「スリーキャッスル(煙草)を買ってこい」といい、「おっさん、金がない」と答えると「盗んで来いッ!」と怒鳴るような人物だった。マキノ雅弘は「生意気ながら、早稲田大学中退程度で大した人だとは思わなかった」と語っている。 
(中略)

「直木賞ができたときには何やこれと首をかしげた、直木三十三から三十五になってもついに彼の名作らしいものを全く知らなかった愚かな私は現在も続いている直木賞に、いったいどんな値打ちがあるのかと首をかしげずにはいられないのである」としている。  

ものすごく嫌われている。

同時代の人でさえ、直木三十五の「名作」を知らなかったというのも、すごい話だ。


作家としての活動にも、だいぶケチがついている。

代表作となったのは、お由羅騒動を描いた『南国太平記』である。これは三田村鳶魚が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて歴史小説・時代小説家らの無知を批判した。そのため海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。 

代表作が他人の業績のパクリで、しかも、そのパクリ行動を反面教師として、良質な作家が育ったというのだから、人間性のダメさ加減が突き抜けている。


でも、きっと、「南国太平記」は面白い作品なのだろう。
青空文庫版があるので、そのうち読んでみようと思う。


この「死までを語る」が、文芸春秋社の「話」という雑誌に発表されたのは、1933(昭和8)年から1934(昭和9)だったようだ。

その1934年(昭和9年)に、直木三十五は、 結核性脳膜炎で亡くなっている。


「長くて一年位しか保つまいから」と自分で書いたことが、現実になったことになる。









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