2018年4月19日木曜日

コナン・ドイル「入院患者」(読書メモ)

今回も日記モードです。

Kindleの無料本(主に青空文庫系)で見つけたコナン・ドイルの短編が面白くて、いろいろダウンロードして読んでいます。



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コナン・ドイルが「入院患者」を発表したのは、1893年とのこと。(ウィキペディアの記事による)

この青空文庫版は、1930年(昭和五年)に平凡社から出た「世界探偵小説全集 第三巻 シャーロック・ホームズの記憶」を底本にしているそうです。

青空文庫化されるときに、旧字・旧かなを現代表記に改めたり、「恰も→あたかも」のように、現在は使われない漢字表記をひらがなにしたりする変更が行われ、底本の表記からだいぶ変更されているようなのですが、ところどころに、変更の手をすり抜けたらしい、古めかしい表記が残っていました。

その一つが、「顚癇病」です。

この漢字表記には、ルビがついていなかったのですが、漢字の構成要素や前後の文脈から、「てんかんびょう」と読むことは想像がつきます。

この病名は、現代では「てんかん」とひらがな表記されるのが通例ですが、漢字表記される場合は、「癲癇」とされることが多いはずで、やまいだれのつかないの漢字が使われる日本語の用例は、google検索をしてみても、一例もありませんでした。

(※ネット上の青空文庫では、顚」ではなく「顛」が使われていました。そして「癲癇」の表記で青空文庫を全文検索してみると、たくさんの用例が見つかります。)


おそらくは、底本となった平凡社版が、「顚癇病」の表記を採用していたのだと想像されますが、同時代に出版されている正宗白鳥の「吉日」(昭和3年)では「癲癇」の表記のようです。


ただ、この物語には、てんかんの患者は登場しません。
てんかんの患者らしい様子で登場した人物は、仮病をつかっていただけでした。


患者にはあまり高い教養はないらしく、時々その答弁は曖昧に分かりにくくなりましたが、私はそれを彼が私たちの国の言葉にまだ不馴れだからだ、と云うような様子を装ってやりました。けれどもそのうちに突然に、彼は私の問いに答えるのをやめましたので、私は驚いて彼を見ていますと、彼はやがて椅子から立ち上がって、全く無表情な硬わばった顔をして、私をまじまじと見詰めるのでした。----云わずと知れた、彼は例の神秘的な精神錯乱の発作に捕らわれたのです。 
実際の話、私がその患者を見て、まず一番最初に感じたのは同情とそれから恐れとでした。が、その次に感じたのは、たしかに学問的な満足だったことを白状します。----私はその患者の脈の状態や性質やを詳しく書きとめ、それから彼のからだの筋肉の剛直性をためしてみたり、またその感受性や反応の度合いをしらべてみたりしました。 
 が、これらの諸点の診察では、私がかつて取扱った患者と、特別に違った所は何もありませんでした。そこで私はこうした場合に、患者に亜硝酸アミルを吸入させて、よい結果を得ることを思い出しましたので、この時こそ、その効果をためしてみるのによい時だと考えつきました。 
(コナン・ドイル 「入院患者」より引用)

亜硝酸アミルは、狭心症などの心臓疾患に使われる薬剤だそうですが、「入院患者」が書かれた時代には、てんかんの患者に試されるようなことも、もしかするとあったのかもしれません。

引用文中の患者は、医者が亜硝酸アミルを持ってくる前に、病院から逃げ出してしまいます。

もしも治療されていたら、どうなっていたことか……。











2018年4月4日水曜日

読書日記…田島昭宇と大塚英志と、笙野頼子…



田島昭宇の「魍魎戦記MADARA」というマンガを愛読したことがきっかけで、原作者の大塚英志という人の存在を知ったのだけども、その後はじまった田島昭宇作画・大塚英志原作の連載「多重人格探偵サイコ」がどうしても読めず、ほとんど強烈な嫌悪症に近い状態となってしまったので、それから20年近く田島昭宇の作品には近寄らなくなりました。
(書店で背表紙を見かけてもサッと顔を背けるレベル)


田島昭宇氏の絵、好きだったのに…。








いまウィキペディアの「多重人格探偵サイコ」のページをみたら、さもありなんというエピソードが載っていました。(以下引用)



第1話で主人公の恋人の女性が、両手両足を切断された状態で宅配便で箱詰めして届けられるという描写がある。これを見た角川書店の役員が印刷機を止め、当初1997年1月号から連載が始まる予定が2月号からになるというアクシデントで始まった。
猟奇殺人を描き、リアルな死体描写、グロテスクで残酷な描写が非常に多い。その描写ゆえ2006年に茨城県、2007年に香川県・岩手県で、2008年に福島県・大分県・長崎県で青少年保護育成条例に基づく有害図書に指定されている。


振り返って考えるに、「多重人格探偵サイコ」という作品に対する私の嫌悪症は、残虐に肉体を破壊する描写そのものに対してではなく(岩田明「寄生獣」は全く平気でしたし)、なにかこう、そういうものを敢えて前面に出し、タブーを破ることや、人の目をおどろかすようなことをして傾(かぶ)いてみせるかのような、いやな気配を感じたところから発したように思います。


もちろん、全巻を読んでもいない私が、作品自体の価値や意味を論じたり断じたりすることはできませんので、「嫌でした」というにとどめます。


多重人格…解離性同一障害の当事者や関係者にとって、この作品の存在はどうだったのだろうかということも、ちょっと気になるところですが、わからないので保留。



残虐な殺人事件は、わざわざ創作物で読まなくても、現実に起きているものだけで十分というのが正直なところです。それだって、もう一件も起きてほしくはありません。


奇しくも「多重人格探偵サイコ」が完結した2016年には、あの相模原障害者施設殺傷事件が起きています。


事件の残虐さ、痛ましさには胸がつぶれるような思いをしましたが、それ以上に恐ろしかったのは、重度の障害者が「生きる」ことに対する、世間の人々の身も蓋もない損得勘定でした。

個人の生産性で生きる価値を計ろうとするような言葉に歯止めのきかない社会であること、その気持ち悪さに立ち向かうのに、普通の善意や好意、既存の道徳観などでは、どうにも力不足であるように思いました。それらは、

「だって、税金の無駄でしょ?」

のひと言でなぎ倒されてしまうことに対して、あるいはそのひと言でなぎ倒せると感じる、不特定多数の分厚い層に対して、有力な反撃のパワーを持たないように思えました。

そういうやりきれない状況にあって、一方的に否定され、殺される側、障害者の側に立って手弁当で戦ってくれるものがあるとすれば、哲学であり、(純)文学であるように私には思えました。

例えば、笙野頼子氏の「未闘病記」の、末尾近くに書かれた次のような言葉は、(重度知的障害者の親である)私にとっては、力強い味方のように思えたのです。

 ひとりの人間がただ生きている。その内面はひとつの独立した宇宙である。不当な洗脳なしにこの自立性を変えることは難しい。つまり、その自立性に依って思考していれば、言葉を使っていれば、そしてその言葉に意味や芸術があれば、その人は孤独ではない。社会とともにあり、参加している。かつ、その人の脳内に発生した共感や想像力は本人の行動、表現によって他に影響を与えるのだ。

 そもそも心は体に対して無力であろうか。ひとりでいる事は不毛だろうか。
 人は関係性だけに縛られる必要などない。どこか王のような強い心を持たなければ不可能かもしれないが。 


笙野頼子 「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用



 例えば、ひとりぼっちで生きている人には生きている価値がないのか、労働していない或いは「なにもしてない」人間には社会も意味もないのか。孤立だけなのか。そんな事はない。人間といない時も人は言葉を使い神に祈り猫と眠る、持病に悩まされる。そんな折々、その人の心は動いている、内面はある。そこから社会に出て行く、というか彼は言語や内面により、社会化されている。

 人は「ひとりぼっち」でも社会と関わり合える。外界に対峙できる。社会の片隅で生まれた内面の幸福は誰に知られずとも本人の心の中にはある。
 かつ、これらの内面は人間関係から生まれるのではなく、根本的には所有という制度から発したものである。人間は自分の肉体を所有し、土地を所有し、自分の言葉を使い、私、自分となる。また、国家や権力に対抗することで形成されていく自分もある。 
 その中で人は自分のテリトリーを求め、他者の財産を奪えば時に罪悪感に戦く。また時には自分の土地を愛し耕し、わが身のように守り、天災に脅える。その土地に神を祀り、死後を想像し、祈るものは祈る。これらは、社会的関係には還元できない。個人の居場所に、その所有物において発生することだ。

笙野頼子 「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用


笙野頼子氏と大塚英志氏の「純文学論争」について、ウィキの説明を読むと、純文学が障害者と重なってきてしまうのは、感傷的にすぎる発想かもしれません。でも、


1998年頃、大塚英志が1980年代に主張した「売れない純文学は商品として劣る」との主張に対して笙野頼子は抗議した。そこには、当時の読売新聞で文芸時評が評論家ではなく新聞記者によってなされたこと、『文藝春秋』誌上で直木賞作家数名による座談会で〈売れない小説には価値がない〉という趣旨の発言がなされたこともきっかけとなっていた。 (ウィキベデア「純文学論争」の項より引用)

ここで言われていることを、同じような発想の「働けない○○は人間として劣る」に、ちょこっと入れ替えてみたりすると、いま問題になっている過労死問題、ブラック企業問題など、いろんなものが芋づるのようにずるずるとひっかかって顔を見せるわけで、それらを全部ひきずりだして晒した先には、「純文学」を「売れない」「つまらない」「役に立たない」ものとして、人間存在の根幹そのものといっしょくたに貶めようとしているものと同根の、人を生かさない考え方そのものがあるような気がしてきます。


それでも、売れない純文学の出版(文芸誌の発行など)を維持することが、売れるジャンルの作品を圧迫しているというのが事実なら、なんとかしてほしいところではあります。

文芸雑誌は私も滅多に買いませんし、芥川賞受賞作も野間文芸賞受賞作も、電子本で読んでいます。

多くの人がスマホやiPhoneや読書用端末で小説やマンガを読む時代なのですから、そっちの方向に積極的に切り替えることで、圧迫を軽減できないものなのかと。業界の事情を知らない者の戯言ですけれども。



あと、「魍魎戦記MADARA」は、紙の豪華本で再版ではなく、ぜひとも電子化してほしいです。(豪華本、高すぎです…orz)









2018年4月3日火曜日

笙野頼子「未闘病記 膠原病、『混合性結合組織病』の」(読書日記)


今回も読書日記モードです。

でも前回のような手抜きをせずに、表紙画像をちゃんと貼ります。

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好きな作家の、好きな作品なのですが、感想をとてもまとめきれずにいます。
だからとりあえず、読みながら感じたこと、考えたことを、メモしておこうと思います。


冒頭で作者が「本書はフィクションです」と書いておられるけれども、ページをめくった先にあるのは、それまで当たり前と思っていた日常に何らかの爆弾が落とされた時の現実世界の手触りで、「ああこれ知ってる、ものすごく」とつぶやきながら、最初はおそるおそる、途中からは引きずり込まれるようにして、読み進めることになりました。


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医学を知らぬひとりの人間から見える範囲を、間違っているかもしれないけれど、自分なりの過去の総括を今ここに残します。不謹慎にも見えるところは自分がいま明るくなるため、また三十年来の読者を明るくするつもりで、敢えて書きました。

笙野頼子「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用
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なんとありがたいお気持ちだろうかと思いました。

笙野頼子氏の「二百回忌」を読んだのは、この作品が三島由紀夫賞を受賞した1994年だったはずですので、私は残念ながら三十年来ではなく、約二十四年来の読者ということになります。

「二百回忌」を読み始めてすぐに夢中になり、笙野頼子氏の作品のような小説が存在するなら小説って大好きだ、とまで思ったのを、よく覚えています。

滝のように、洪水のようにこちらに流れ込んできて暴れる言葉。
言葉が何かの映像イメージを喚起するのではなく(それは私自身の想像力がヤワだからですが)、活字のままで猛烈に暴れまわる物語。圧倒されながらも、なんとか映像イメージを持とうとすると、それがまた恐ろしく豊穣で、なにもかもが歌舞伎の隈取りでもされたかのようにくっきりしていて、にもかかわらずとんでもなく壊れていて。

私にとって笙野頼子作品は、読んで巻き込まれるリアル怪異現象のような、非常に胸のすくものでした。


けれども、「二百回忌」と出会ってまもなく、それまでの人生で想像もしなかったような難病・障害の世界に呼び出され、最初は家族として、やがて当事者として、その世界にどっぷり浸かる暮らしが始まってしまいました。

本は読んでいましたが、読解するのに集中力の必要な文学作品からは遠ざかり、ハッピーエンドを約束されているライトノベルや漫画本ばかり、まるで栄養ドリンクでも飲むように、大量に読むようになりました。たぶん、誰かが幸せになるストーリーに浸ることで、現実のしんどさを忘却したかったのだろうと思います。

そんな中毒的な読書を続けるうちに、もともと悪かった目の状態を一層悪化させてしまい、紙の本、とくに文庫本のサイズの活字を長時間読むことが厳しくなってしまいました。東日本大震災で、書架の本がナイアガラの滝みたいに崩れ落ちるのを見て、「諸行無常」を痛感したことをきっかけに、自分の本を数千冊処分しました(大半はマンガとライトノベルでしたけど…)。

その後、AmazonのKindleで電子本を読むようになってからは、文字の拡大機能やバックライト機能の助けを借りながら、往年の読書量をじわじわと取り戻しつつあります。


「未闘病記 膠原病、『混合性結合組織病』の」も、Kindle版で読んでいます。


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 そう、難病である。難病になったのだ、難病、と判明した。純文学難解派、と分類される難解文学の書き手のこの私がね、それは。
 十万人に何人かの、予想困難な特定疾患。遺伝も伝染もしない個人的体験。

笙野頼子「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用
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おもわず「こちらがわにようこそ」と心のなかで興奮気味につぶやいて、いやそれはちょっとどうなのかと自分で自分をたしなめましたが、なんともいえない感慨、それもどちらかというとうれしさ寄りの…を覚えたのは事実です。

日常生活にいきなり口を開けて人の人生を丸ごと巻き込む、難病(自分の、あるいは家族の)という異界を、ほかならぬ笙野頼子氏に文章化していただけることに対する、素朴なうれしさというのが、一番近いかもしれません。

それにしても…


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 殺すかわりに書け、って学生にユってる。「悩んだら目の前のものを書け」、「書けなかったら書けない理由を書け」それと「殺すかわりに書け」。

笙野頼子「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用
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主人公の授業を取っている学生たちは、なんて幸福な若者だちだろうかと思います。

「何ものでもない」「居場所がない」「できない」自分を問答無用で責め立てる世間にあって、どうしようもない生きにくさを抱えながら文学に寄っていこうとしているときに、このように言ってくれる「先生」が教室にいたなら、どれほどの希望になることか。

まだまだ感想は尽きませんが、今回はここまでにして、また読書日記の形で書いてみようと思います。




2018年4月2日月曜日

佐川光晴「縮んだ愛」を読んだけど…(読書日記)

ちっとも記事数が増えないことに業を煮やしましたので(自業自得)、書評だけでなく、読書日記モードのエントリーを自分に許可することにします。(´・ω・`)

で、佐川光晴「縮んだ愛」を読みました。




表紙画像を用意して貼り付けるというも面倒だから、Amazonアソシエイトのお手軽リンクをぺったんします。手抜きですみません。m(. .)m

それにしてもこれ、もうすこし垢抜けたデザインにならないものでしょうか。(T_T)
「今すぐ購入」とかの文字列いらないから、もっと表紙画像がきれいに見えるサイズに変えられるといいのに(私の知識がないだけだったらすみません)。


「縮んだ愛」を読もうと思ったきっかけは、主人公が小学校の障害児学級(いまは特別支援学級と言われています)で教える先生で、自閉症の児童が出てくる物語だと知ったからでした。

私自身が自閉症(正確には自閉傾向のある広汎性発達障害)の息子を持つ親ですので、そこは問答無用で興味を引かれるポイントとなります。

で、読んでみたのですが……
力作であるとは思うのですが、いまいち読後感がよくありません。

理由はいろいろありますけれども、主人公の先生が、どうにも魅力に欠ける人物だったのが、一番大きかったかもしれません。なにしろ大事なことから目をそらして、あきらめて逃げ続けて、お酒ばっかり飲んでいる人ですから。(~_~;)

Amazonでの紹介文に、

2002年第24回野間文芸新人賞受賞作! 障害児教育の現場から描く、注目の新しい文学。養護学級のベテラン教員である「わたし」が巻き込まれた元教え子の殺人未遂事件を、主人公の告白体で描いた力作!

とありますが、これ、だいぶ誤解を招く表現になっていると思います。

まずこの小説、「障害児教育の現場から描」いた物語ではないと思います。

主人公は確かに障害児教育の現場にいる教員ですが、彼の告白の大半は、障害児教育の現状に感じている自分自身のむなしさやあきらめの気持ち、そして妻との間の深刻な感情のすれ違い、家庭内別居事情、息子との会話のなさ、そうしたすべてのことを直視せず、ただ眺めてあきらめて酒に逃げ続けているだけの、自分の心情と言い訳ばかりです。もともとこういうタイプが大嫌いですので(個人的好み)、読んでいて、げんなりします。

彼の職場にいるはずの障害児たちは、一般論のなかで、あるいは集団としてまとめて語られるばかりで、具体的な姿はあまり見えてきません。

教育者としての自分に限界を感じて、救いがたい虚無感を抱えながらも、すべて諦めて働いているアル中寸前の教員の告白としては、極めてリアルですぐれたものになっているのかもしれませんけれども、実際に我が子を特別支援学級に通わせていたことのある親として、それを読みたいかというと、

「いらんわ」

というのが、正直なところです(切捨御免なさい)。


Amazonの内容紹介の話に戻りますが、

「元教え子の殺人未遂事件」

という書き方だと、元教え子の障害児が殺人未遂を引き起こした犯人であるかのようですけれども、元教え子は被害者であり、しかも主人公の直接の教え子でも障害児でもありません。犯人は最後まで不明です。


「縮んだ愛」に出てくる自閉症の児童は、主人公の過去の教え子の一人でしたが、普通学級の授業に参加しているときに、他の児童にひどい暴力をふるわれたことで、登校できなってしまいます。彼の出番はそれっきりで、その後の物語のメインの出来事には関わってくることがありません。消息も不明。

暴力をふるった側の児童はもともと粗暴で、根深い他害の問題がありましたが、上の事件のあと、臭い物に蓋をするかのような親の意向で、いきなり転校してしまいます。

一連のやりきれない出来事のために、暴力をふるった側の児童の(普通学級の)担任として直接かかわり、心に深手を負った女性教員は、自ら希望して養護学校(特別支援学校)へと転勤していきます。

主人公もさまざまな思いを抱きますが、児童に対しても同僚の教員に対しても、結局何もできず、傍観者の立場にあるばかりでした。

それ自体はとくに罪ではありませんし、主人公は別に悪徳教員でも問題教師でもありません。むしろ現場では、経験を積んだ「よい先生」であったはずです。

けれども彼は心の中で、自分がどんなにがんばって障害児たちを教育し、社会へと送り出したところで、どうせ、

「行き場もなくしだいに衰えていく」

だけのものだと考えています。現実にそういう実態あることを主人公はよく知っていて、その現実に太刀打ちする気力を完全に失っているのです。

こんな先生は、きっと実際に存在していることでしょう。
でも、わざわざ小説の主人公として出会いたくもなかったと思いました。


というわけで、「自閉症」についての小説を読みたいと考える方に、私は「縮んだ愛」を全くお勧めいたしません。(´・ω・`)

お勧めしにくい小説を独立したエントリーとして紹介するのもどうかと思うので、ここではこういう日記の形で書き残します。(こういう作品、今後増えそうです…)



ちなみに、「縮んだ愛」の主人公は、知的障害児たちの未来からも、こじれてしまった妻との関係からも目をそらしまくったあげく、ある殺人未遂事件の容疑者として逮捕されるという、とんでもない状況に陥ってしまいます。それは全くのとばっちりではありますが、ある意味、彼が逃げ続けた現実から大きなしっぺ返しを食らったというふうに見ることもできるものでした。

事件の被害者は、上にも書いたように、主人公の教え子の自閉症児を殴って転校してしまった、粗暴な児童でした。

彼は大人になってから主人公と再会し、どうしたわけか主人公になついて自宅に通うようになり、連れてきた友人たちも交えて、一緒に酒を飲んで過ごします。

ところがある日、主人公の留守宅の周囲をうろついている姿を目撃されたあと、何者かに殴られて脳が壊れ、意識不明の寝たきりとなってしまいます。

その日、自宅を留守にして旅に出ていた主人公には、アリバイがありませんでした。

主人公は確実に無実なのですが、ある事情のために、自分のアリバイを警察に証明しようとせず、一切を黙秘したまま有罪になろうとします。真犯人を知っているはずの被害者が意識を取り戻さないかぎり、主人公の有罪は確定するかもしれませんが、物語はその顛末を語らずに終ります。


なぜ主人公が自身のアリバイを語らず、殺人未遂の罪をかぶろうとしたかについては、彼の告白全体をよく読むと、なんとなく、想像がつくようになっています。

もしも彼が、妻との感情のすれ違いや自分の気持ちから目を背けず、しっかりと関わりを持つことをしていれば、こんな事件に巻き込まれることはありませんでした。

彼が目をそらし、無視してきたものは、あまりにもたくさんありました。

・障害児教育という自分の仕事への妻の無理解を黙認。
・結婚以来共に楽しんでいた晩酌を妻が拒否したことを黙認。
・妻が婦人病を患ったことを理由にはじまった、セックスレスを黙認。
・息子のお受験問題に対する、妻との意見の不一致を黙認。
・イスラム教に傾倒し、自室壁面をアラベスク文様で埋め尽くす一人息子を黙認。
・息子を心配するうちに自分がイスラム教徒になってしまった妻の心情を黙認。
・自宅でブルカをかぶり夫を完全無視する妻を黙認。
・妻と息子がイスラム教の巡礼の旅にでることを黙認。


最初の三つくらいは、ない話ではないと思いますが、後半になってくると、これを長年にわたって黙認し続けるほうが難しいのではないかという状況で、家庭内でブルカ姿となる妻を黙認するに至っては、もはや無関心であること自体が、暴力よりも残酷だと言いたくなります。




まあ、こういう姿の妻に話しかけにくいのはわかりますけども……

こんなことになる前になんとかしろとという話です。(´・ω・`)


もしも妻との関係がブルカで隔てられてしまうほどこじれていなければ、主人公は、夜祭りの巡回指導のあとに深酒をすることも、その場で被害者と再会することも、彼に深く関わって殺人事件の容疑者にされることも、妻と息子が巡礼の旅に出ている間にアリバイを証明できない一日を作ってしまうことも、絶対になかったはずでした。


だからといって、やってもいない殺人罪をかぶることが正しい責任の取り方であるはずもなく、おそらく主人公は、この先さらにどうしようもない状況に陥ることが予想されます。

可能性は低いかもしれませんが、脳が壊れてしまった被害者が意識を取り戻し、犯人が主人公ではないと証言すれば、主人公はアリバイのない一日について、妻にどう説明するのか。


物語の冒頭で、もともとスケベなほうの人間であるとはっきり告白していた主人公は、過去のエピソードの端々で、決して性欲が弱くはなかったことを示唆していますが、のちに殺されかけて意識不明となる青年の差入れで豚の睾丸の刺身を食べてからは「体の漲り」を取り戻したと語っています。

殺人未遂事件が起こった当日、ほんとうは何をしていたかを正直に話せば、容疑が晴れるかわりに、妻をより深く傷つけかねないと、主人公は考えたのではないかと思います。

さらに、有罪の判決を受けて刑務所に行くことが決まれば、主人公がやりきれないむなしさを感じている障害児教育の現場からの撤退が可能となります。

結局主人公は、本当の意味で現実と向き合うことから逃げ続けようとしているのでしょう。


どうせなら、主人公がどうにも逃げられなくなるところまで、全部書いてほしかったです。