2018年7月27日金曜日

封蝋で病気を治す?




しばらく前に、チェーホフの「桜の園」(青空文庫 神西清訳 Kindle無料)を読んだのですが、その中に、気になる話が出てきました。



フィールス 加減がわるくてな。昔はうちの舞踏会といやあ、将軍さまだの男爵だの提督閣下だのが踊りに来なすったもんだが、それが今じゃ、郵便のお役人だの駅長だのを迎えにやって、それさえいい顔をして来やしない。どうもわしも、めっきり弱くなったよ。亡くなった大旦那さまは、みんなの病気を、いつも封蠟で療治なすったものだ。今でもわしは毎にち封蠟をのんでるが、これでもう二十六年か、その上にもなるかな。わしがこうして生きているのは、そのおかげかも知れんて。 
アントン チェーホ「桜の園」 第三幕




「封蠟」というのは、封筒や容器を封印するときに用いる、蝋状の物質。




こういうのですね。

これそのものは食品や治療薬ではありませんが、ハチの巣からとれる、蜜蝋が原材料だったと思われますので、チェーホフの時代のロシアでは、民間療法的に用いられていたのかもしれません。


ウィキの「蜜蝋」の解説によると、食用としている地域は世界各地にあるそうです。

花粉由来ビタミン類、鉄分及びカルシウムなどミネラル類、蜜蝋本来の脂溶性ビタミン類といった栄養成分が含まれているため、現在では食用に巣のままの状態で健康食品としてコムハニーという名目で販売されているほか、カヌレやガムなどの洋菓子にも使用される。 
かつて欧州ではバターが量産普及する以前ではバター同様に調理用油脂として用いられた。 
また古くから中世にかけて蜂蜜の精製方法が普及されていない時期は欧州及び中東地域及び中国周辺地域、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸では蜂蜜と巣を共に摂取するという形で蜜蝋は常食されてきた。 
特に欧州では蜜蝋のままでもカロリーが高い飢救食物としても利用された。


コムハニー、Amazonで調べてみたら、日本製のもののほか、ニュージーランド、ドイツやハンガリーで作られたものが見つかりました。なんだかおいしそうなので、機会があれば、食べてみたいです。

でも「桜の園」で、封蝋を毎日飲んでいた老使用人は、屋敷を去って行く主人の一族に見忘れられたまま置き去りにされて、締め切った扉で倒れ、おそらくそのまま昇天していくのでした。








2018年4月19日木曜日

コナン・ドイル「入院患者」(読書メモ)

今回も日記モードです。

Kindleの無料本(主に青空文庫系)で見つけたコナン・ドイルの短編が面白くて、いろいろダウンロードして読んでいます。



Amazon


コナン・ドイルが「入院患者」を発表したのは、1893年とのこと。(ウィキペディアの記事による)

この青空文庫版は、1930年(昭和五年)に平凡社から出た「世界探偵小説全集 第三巻 シャーロック・ホームズの記憶」を底本にしているそうです。

青空文庫化されるときに、旧字・旧かなを現代表記に改めたり、「恰も→あたかも」のように、現在は使われない漢字表記をひらがなにしたりする変更が行われ、底本の表記からだいぶ変更されているようなのですが、ところどころに、変更の手をすり抜けたらしい、古めかしい表記が残っていました。

その一つが、「顚癇病」です。

この漢字表記には、ルビがついていなかったのですが、漢字の構成要素や前後の文脈から、「てんかんびょう」と読むことは想像がつきます。

この病名は、現代では「てんかん」とひらがな表記されるのが通例ですが、漢字表記される場合は、「癲癇」とされることが多いはずで、やまいだれのつかないの漢字が使われる日本語の用例は、google検索をしてみても、一例もありませんでした。

(※ネット上の青空文庫では、顚」ではなく「顛」が使われていました。そして「癲癇」の表記で青空文庫を全文検索してみると、たくさんの用例が見つかります。)


おそらくは、底本となった平凡社版が、「顚癇病」の表記を採用していたのだと想像されますが、同時代に出版されている正宗白鳥の「吉日」(昭和3年)では「癲癇」の表記のようです。


ただ、この物語には、てんかんの患者は登場しません。
てんかんの患者らしい様子で登場した人物は、仮病をつかっていただけでした。


患者にはあまり高い教養はないらしく、時々その答弁は曖昧に分かりにくくなりましたが、私はそれを彼が私たちの国の言葉にまだ不馴れだからだ、と云うような様子を装ってやりました。けれどもそのうちに突然に、彼は私の問いに答えるのをやめましたので、私は驚いて彼を見ていますと、彼はやがて椅子から立ち上がって、全く無表情な硬わばった顔をして、私をまじまじと見詰めるのでした。----云わずと知れた、彼は例の神秘的な精神錯乱の発作に捕らわれたのです。 
実際の話、私がその患者を見て、まず一番最初に感じたのは同情とそれから恐れとでした。が、その次に感じたのは、たしかに学問的な満足だったことを白状します。----私はその患者の脈の状態や性質やを詳しく書きとめ、それから彼のからだの筋肉の剛直性をためしてみたり、またその感受性や反応の度合いをしらべてみたりしました。 
 が、これらの諸点の診察では、私がかつて取扱った患者と、特別に違った所は何もありませんでした。そこで私はこうした場合に、患者に亜硝酸アミルを吸入させて、よい結果を得ることを思い出しましたので、この時こそ、その効果をためしてみるのによい時だと考えつきました。 
(コナン・ドイル 「入院患者」より引用)

亜硝酸アミルは、狭心症などの心臓疾患に使われる薬剤だそうですが、「入院患者」が書かれた時代には、てんかんの患者に試されるようなことも、もしかするとあったのかもしれません。

引用文中の患者は、医者が亜硝酸アミルを持ってくる前に、病院から逃げ出してしまいます。

もしも治療されていたら、どうなっていたことか……。











2018年4月4日水曜日

読書日記…田島昭宇と大塚英志と、笙野頼子…



田島昭宇の「魍魎戦記MADARA」というマンガを愛読したことがきっかけで、原作者の大塚英志という人の存在を知ったのだけども、その後はじまった田島昭宇作画・大塚英志原作の連載「多重人格探偵サイコ」がどうしても読めず、ほとんど強烈な嫌悪症に近い状態となってしまったので、それから20年近く田島昭宇の作品には近寄らなくなりました。
(書店で背表紙を見かけてもサッと顔を背けるレベル)


田島昭宇氏の絵、好きだったのに…。








いまウィキペディアの「多重人格探偵サイコ」のページをみたら、さもありなんというエピソードが載っていました。(以下引用)



第1話で主人公の恋人の女性が、両手両足を切断された状態で宅配便で箱詰めして届けられるという描写がある。これを見た角川書店の役員が印刷機を止め、当初1997年1月号から連載が始まる予定が2月号からになるというアクシデントで始まった。
猟奇殺人を描き、リアルな死体描写、グロテスクで残酷な描写が非常に多い。その描写ゆえ2006年に茨城県、2007年に香川県・岩手県で、2008年に福島県・大分県・長崎県で青少年保護育成条例に基づく有害図書に指定されている。


振り返って考えるに、「多重人格探偵サイコ」という作品に対する私の嫌悪症は、残虐に肉体を破壊する描写そのものに対してではなく(岩田明「寄生獣」は全く平気でしたし)、なにかこう、そういうものを敢えて前面に出し、タブーを破ることや、人の目をおどろかすようなことをして傾(かぶ)いてみせるかのような、いやな気配を感じたところから発したように思います。


もちろん、全巻を読んでもいない私が、作品自体の価値や意味を論じたり断じたりすることはできませんので、「嫌でした」というにとどめます。


多重人格…解離性同一障害の当事者や関係者にとって、この作品の存在はどうだったのだろうかということも、ちょっと気になるところですが、わからないので保留。



残虐な殺人事件は、わざわざ創作物で読まなくても、現実に起きているものだけで十分というのが正直なところです。それだって、もう一件も起きてほしくはありません。


奇しくも「多重人格探偵サイコ」が完結した2016年には、あの相模原障害者施設殺傷事件が起きています。


事件の残虐さ、痛ましさには胸がつぶれるような思いをしましたが、それ以上に恐ろしかったのは、重度の障害者が「生きる」ことに対する、世間の人々の身も蓋もない損得勘定でした。

個人の生産性で生きる価値を計ろうとするような言葉に歯止めのきかない社会であること、その気持ち悪さに立ち向かうのに、普通の善意や好意、既存の道徳観などでは、どうにも力不足であるように思いました。それらは、

「だって、税金の無駄でしょ?」

のひと言でなぎ倒されてしまうことに対して、あるいはそのひと言でなぎ倒せると感じる、不特定多数の分厚い層に対して、有力な反撃のパワーを持たないように思えました。

そういうやりきれない状況にあって、一方的に否定され、殺される側、障害者の側に立って手弁当で戦ってくれるものがあるとすれば、哲学であり、(純)文学であるように私には思えました。

例えば、笙野頼子氏の「未闘病記」の、末尾近くに書かれた次のような言葉は、(重度知的障害者の親である)私にとっては、力強い味方のように思えたのです。

 ひとりの人間がただ生きている。その内面はひとつの独立した宇宙である。不当な洗脳なしにこの自立性を変えることは難しい。つまり、その自立性に依って思考していれば、言葉を使っていれば、そしてその言葉に意味や芸術があれば、その人は孤独ではない。社会とともにあり、参加している。かつ、その人の脳内に発生した共感や想像力は本人の行動、表現によって他に影響を与えるのだ。

 そもそも心は体に対して無力であろうか。ひとりでいる事は不毛だろうか。
 人は関係性だけに縛られる必要などない。どこか王のような強い心を持たなければ不可能かもしれないが。 


笙野頼子 「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用



 例えば、ひとりぼっちで生きている人には生きている価値がないのか、労働していない或いは「なにもしてない」人間には社会も意味もないのか。孤立だけなのか。そんな事はない。人間といない時も人は言葉を使い神に祈り猫と眠る、持病に悩まされる。そんな折々、その人の心は動いている、内面はある。そこから社会に出て行く、というか彼は言語や内面により、社会化されている。

 人は「ひとりぼっち」でも社会と関わり合える。外界に対峙できる。社会の片隅で生まれた内面の幸福は誰に知られずとも本人の心の中にはある。
 かつ、これらの内面は人間関係から生まれるのではなく、根本的には所有という制度から発したものである。人間は自分の肉体を所有し、土地を所有し、自分の言葉を使い、私、自分となる。また、国家や権力に対抗することで形成されていく自分もある。 
 その中で人は自分のテリトリーを求め、他者の財産を奪えば時に罪悪感に戦く。また時には自分の土地を愛し耕し、わが身のように守り、天災に脅える。その土地に神を祀り、死後を想像し、祈るものは祈る。これらは、社会的関係には還元できない。個人の居場所に、その所有物において発生することだ。

笙野頼子 「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用


笙野頼子氏と大塚英志氏の「純文学論争」について、ウィキの説明を読むと、純文学が障害者と重なってきてしまうのは、感傷的にすぎる発想かもしれません。でも、


1998年頃、大塚英志が1980年代に主張した「売れない純文学は商品として劣る」との主張に対して笙野頼子は抗議した。そこには、当時の読売新聞で文芸時評が評論家ではなく新聞記者によってなされたこと、『文藝春秋』誌上で直木賞作家数名による座談会で〈売れない小説には価値がない〉という趣旨の発言がなされたこともきっかけとなっていた。 (ウィキベデア「純文学論争」の項より引用)

ここで言われていることを、同じような発想の「働けない○○は人間として劣る」に、ちょこっと入れ替えてみたりすると、いま問題になっている過労死問題、ブラック企業問題など、いろんなものが芋づるのようにずるずるとひっかかって顔を見せるわけで、それらを全部ひきずりだして晒した先には、「純文学」を「売れない」「つまらない」「役に立たない」ものとして、人間存在の根幹そのものといっしょくたに貶めようとしているものと同根の、人を生かさない考え方そのものがあるような気がしてきます。


それでも、売れない純文学の出版(文芸誌の発行など)を維持することが、売れるジャンルの作品を圧迫しているというのが事実なら、なんとかしてほしいところではあります。

文芸雑誌は私も滅多に買いませんし、芥川賞受賞作も野間文芸賞受賞作も、電子本で読んでいます。

多くの人がスマホやiPhoneや読書用端末で小説やマンガを読む時代なのですから、そっちの方向に積極的に切り替えることで、圧迫を軽減できないものなのかと。業界の事情を知らない者の戯言ですけれども。



あと、「魍魎戦記MADARA」は、紙の豪華本で再版ではなく、ぜひとも電子化してほしいです。(豪華本、高すぎです…orz)









2018年4月3日火曜日

笙野頼子「未闘病記 膠原病、『混合性結合組織病』の」(読書日記)


今回も読書日記モードです。

でも前回のような手抜きをせずに、表紙画像をちゃんと貼ります。

Amazon


好きな作家の、好きな作品なのですが、感想をとてもまとめきれずにいます。
だからとりあえず、読みながら感じたこと、考えたことを、メモしておこうと思います。


冒頭で作者が「本書はフィクションです」と書いておられるけれども、ページをめくった先にあるのは、それまで当たり前と思っていた日常に何らかの爆弾が落とされた時の現実世界の手触りで、「ああこれ知ってる、ものすごく」とつぶやきながら、最初はおそるおそる、途中からは引きずり込まれるようにして、読み進めることになりました。


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医学を知らぬひとりの人間から見える範囲を、間違っているかもしれないけれど、自分なりの過去の総括を今ここに残します。不謹慎にも見えるところは自分がいま明るくなるため、また三十年来の読者を明るくするつもりで、敢えて書きました。

笙野頼子「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用
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なんとありがたいお気持ちだろうかと思いました。

笙野頼子氏の「二百回忌」を読んだのは、この作品が三島由紀夫賞を受賞した1994年だったはずですので、私は残念ながら三十年来ではなく、約二十四年来の読者ということになります。

「二百回忌」を読み始めてすぐに夢中になり、笙野頼子氏の作品のような小説が存在するなら小説って大好きだ、とまで思ったのを、よく覚えています。

滝のように、洪水のようにこちらに流れ込んできて暴れる言葉。
言葉が何かの映像イメージを喚起するのではなく(それは私自身の想像力がヤワだからですが)、活字のままで猛烈に暴れまわる物語。圧倒されながらも、なんとか映像イメージを持とうとすると、それがまた恐ろしく豊穣で、なにもかもが歌舞伎の隈取りでもされたかのようにくっきりしていて、にもかかわらずとんでもなく壊れていて。

私にとって笙野頼子作品は、読んで巻き込まれるリアル怪異現象のような、非常に胸のすくものでした。


けれども、「二百回忌」と出会ってまもなく、それまでの人生で想像もしなかったような難病・障害の世界に呼び出され、最初は家族として、やがて当事者として、その世界にどっぷり浸かる暮らしが始まってしまいました。

本は読んでいましたが、読解するのに集中力の必要な文学作品からは遠ざかり、ハッピーエンドを約束されているライトノベルや漫画本ばかり、まるで栄養ドリンクでも飲むように、大量に読むようになりました。たぶん、誰かが幸せになるストーリーに浸ることで、現実のしんどさを忘却したかったのだろうと思います。

そんな中毒的な読書を続けるうちに、もともと悪かった目の状態を一層悪化させてしまい、紙の本、とくに文庫本のサイズの活字を長時間読むことが厳しくなってしまいました。東日本大震災で、書架の本がナイアガラの滝みたいに崩れ落ちるのを見て、「諸行無常」を痛感したことをきっかけに、自分の本を数千冊処分しました(大半はマンガとライトノベルでしたけど…)。

その後、AmazonのKindleで電子本を読むようになってからは、文字の拡大機能やバックライト機能の助けを借りながら、往年の読書量をじわじわと取り戻しつつあります。


「未闘病記 膠原病、『混合性結合組織病』の」も、Kindle版で読んでいます。


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 そう、難病である。難病になったのだ、難病、と判明した。純文学難解派、と分類される難解文学の書き手のこの私がね、それは。
 十万人に何人かの、予想困難な特定疾患。遺伝も伝染もしない個人的体験。

笙野頼子「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用
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おもわず「こちらがわにようこそ」と心のなかで興奮気味につぶやいて、いやそれはちょっとどうなのかと自分で自分をたしなめましたが、なんともいえない感慨、それもどちらかというとうれしさ寄りの…を覚えたのは事実です。

日常生活にいきなり口を開けて人の人生を丸ごと巻き込む、難病(自分の、あるいは家族の)という異界を、ほかならぬ笙野頼子氏に文章化していただけることに対する、素朴なうれしさというのが、一番近いかもしれません。

それにしても…


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 殺すかわりに書け、って学生にユってる。「悩んだら目の前のものを書け」、「書けなかったら書けない理由を書け」それと「殺すかわりに書け」。

笙野頼子「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病」の』から引用
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主人公の授業を取っている学生たちは、なんて幸福な若者だちだろうかと思います。

「何ものでもない」「居場所がない」「できない」自分を問答無用で責め立てる世間にあって、どうしようもない生きにくさを抱えながら文学に寄っていこうとしているときに、このように言ってくれる「先生」が教室にいたなら、どれほどの希望になることか。

まだまだ感想は尽きませんが、今回はここまでにして、また読書日記の形で書いてみようと思います。




2018年4月2日月曜日

佐川光晴「縮んだ愛」を読んだけど…(読書日記)

ちっとも記事数が増えないことに業を煮やしましたので(自業自得)、書評だけでなく、読書日記モードのエントリーを自分に許可することにします。(´・ω・`)

で、佐川光晴「縮んだ愛」を読みました。




表紙画像を用意して貼り付けるというも面倒だから、Amazonアソシエイトのお手軽リンクをぺったんします。手抜きですみません。m(. .)m

それにしてもこれ、もうすこし垢抜けたデザインにならないものでしょうか。(T_T)
「今すぐ購入」とかの文字列いらないから、もっと表紙画像がきれいに見えるサイズに変えられるといいのに(私の知識がないだけだったらすみません)。


「縮んだ愛」を読もうと思ったきっかけは、主人公が小学校の障害児学級(いまは特別支援学級と言われています)で教える先生で、自閉症の児童が出てくる物語だと知ったからでした。

私自身が自閉症(正確には自閉傾向のある広汎性発達障害)の息子を持つ親ですので、そこは問答無用で興味を引かれるポイントとなります。

で、読んでみたのですが……
力作であるとは思うのですが、いまいち読後感がよくありません。

理由はいろいろありますけれども、主人公の先生が、どうにも魅力に欠ける人物だったのが、一番大きかったかもしれません。なにしろ大事なことから目をそらして、あきらめて逃げ続けて、お酒ばっかり飲んでいる人ですから。(~_~;)

Amazonでの紹介文に、

2002年第24回野間文芸新人賞受賞作! 障害児教育の現場から描く、注目の新しい文学。養護学級のベテラン教員である「わたし」が巻き込まれた元教え子の殺人未遂事件を、主人公の告白体で描いた力作!

とありますが、これ、だいぶ誤解を招く表現になっていると思います。

まずこの小説、「障害児教育の現場から描」いた物語ではないと思います。

主人公は確かに障害児教育の現場にいる教員ですが、彼の告白の大半は、障害児教育の現状に感じている自分自身のむなしさやあきらめの気持ち、そして妻との間の深刻な感情のすれ違い、家庭内別居事情、息子との会話のなさ、そうしたすべてのことを直視せず、ただ眺めてあきらめて酒に逃げ続けているだけの、自分の心情と言い訳ばかりです。もともとこういうタイプが大嫌いですので(個人的好み)、読んでいて、げんなりします。

彼の職場にいるはずの障害児たちは、一般論のなかで、あるいは集団としてまとめて語られるばかりで、具体的な姿はあまり見えてきません。

教育者としての自分に限界を感じて、救いがたい虚無感を抱えながらも、すべて諦めて働いているアル中寸前の教員の告白としては、極めてリアルですぐれたものになっているのかもしれませんけれども、実際に我が子を特別支援学級に通わせていたことのある親として、それを読みたいかというと、

「いらんわ」

というのが、正直なところです(切捨御免なさい)。


Amazonの内容紹介の話に戻りますが、

「元教え子の殺人未遂事件」

という書き方だと、元教え子の障害児が殺人未遂を引き起こした犯人であるかのようですけれども、元教え子は被害者であり、しかも主人公の直接の教え子でも障害児でもありません。犯人は最後まで不明です。


「縮んだ愛」に出てくる自閉症の児童は、主人公の過去の教え子の一人でしたが、普通学級の授業に参加しているときに、他の児童にひどい暴力をふるわれたことで、登校できなってしまいます。彼の出番はそれっきりで、その後の物語のメインの出来事には関わってくることがありません。消息も不明。

暴力をふるった側の児童はもともと粗暴で、根深い他害の問題がありましたが、上の事件のあと、臭い物に蓋をするかのような親の意向で、いきなり転校してしまいます。

一連のやりきれない出来事のために、暴力をふるった側の児童の(普通学級の)担任として直接かかわり、心に深手を負った女性教員は、自ら希望して養護学校(特別支援学校)へと転勤していきます。

主人公もさまざまな思いを抱きますが、児童に対しても同僚の教員に対しても、結局何もできず、傍観者の立場にあるばかりでした。

それ自体はとくに罪ではありませんし、主人公は別に悪徳教員でも問題教師でもありません。むしろ現場では、経験を積んだ「よい先生」であったはずです。

けれども彼は心の中で、自分がどんなにがんばって障害児たちを教育し、社会へと送り出したところで、どうせ、

「行き場もなくしだいに衰えていく」

だけのものだと考えています。現実にそういう実態あることを主人公はよく知っていて、その現実に太刀打ちする気力を完全に失っているのです。

こんな先生は、きっと実際に存在していることでしょう。
でも、わざわざ小説の主人公として出会いたくもなかったと思いました。


というわけで、「自閉症」についての小説を読みたいと考える方に、私は「縮んだ愛」を全くお勧めいたしません。(´・ω・`)

お勧めしにくい小説を独立したエントリーとして紹介するのもどうかと思うので、ここではこういう日記の形で書き残します。(こういう作品、今後増えそうです…)



ちなみに、「縮んだ愛」の主人公は、知的障害児たちの未来からも、こじれてしまった妻との関係からも目をそらしまくったあげく、ある殺人未遂事件の容疑者として逮捕されるという、とんでもない状況に陥ってしまいます。それは全くのとばっちりではありますが、ある意味、彼が逃げ続けた現実から大きなしっぺ返しを食らったというふうに見ることもできるものでした。

事件の被害者は、上にも書いたように、主人公の教え子の自閉症児を殴って転校してしまった、粗暴な児童でした。

彼は大人になってから主人公と再会し、どうしたわけか主人公になついて自宅に通うようになり、連れてきた友人たちも交えて、一緒に酒を飲んで過ごします。

ところがある日、主人公の留守宅の周囲をうろついている姿を目撃されたあと、何者かに殴られて脳が壊れ、意識不明の寝たきりとなってしまいます。

その日、自宅を留守にして旅に出ていた主人公には、アリバイがありませんでした。

主人公は確実に無実なのですが、ある事情のために、自分のアリバイを警察に証明しようとせず、一切を黙秘したまま有罪になろうとします。真犯人を知っているはずの被害者が意識を取り戻さないかぎり、主人公の有罪は確定するかもしれませんが、物語はその顛末を語らずに終ります。


なぜ主人公が自身のアリバイを語らず、殺人未遂の罪をかぶろうとしたかについては、彼の告白全体をよく読むと、なんとなく、想像がつくようになっています。

もしも彼が、妻との感情のすれ違いや自分の気持ちから目を背けず、しっかりと関わりを持つことをしていれば、こんな事件に巻き込まれることはありませんでした。

彼が目をそらし、無視してきたものは、あまりにもたくさんありました。

・障害児教育という自分の仕事への妻の無理解を黙認。
・結婚以来共に楽しんでいた晩酌を妻が拒否したことを黙認。
・妻が婦人病を患ったことを理由にはじまった、セックスレスを黙認。
・息子のお受験問題に対する、妻との意見の不一致を黙認。
・イスラム教に傾倒し、自室壁面をアラベスク文様で埋め尽くす一人息子を黙認。
・息子を心配するうちに自分がイスラム教徒になってしまった妻の心情を黙認。
・自宅でブルカをかぶり夫を完全無視する妻を黙認。
・妻と息子がイスラム教の巡礼の旅にでることを黙認。


最初の三つくらいは、ない話ではないと思いますが、後半になってくると、これを長年にわたって黙認し続けるほうが難しいのではないかという状況で、家庭内でブルカ姿となる妻を黙認するに至っては、もはや無関心であること自体が、暴力よりも残酷だと言いたくなります。




まあ、こういう姿の妻に話しかけにくいのはわかりますけども……

こんなことになる前になんとかしろとという話です。(´・ω・`)


もしも妻との関係がブルカで隔てられてしまうほどこじれていなければ、主人公は、夜祭りの巡回指導のあとに深酒をすることも、その場で被害者と再会することも、彼に深く関わって殺人事件の容疑者にされることも、妻と息子が巡礼の旅に出ている間にアリバイを証明できない一日を作ってしまうことも、絶対になかったはずでした。


だからといって、やってもいない殺人罪をかぶることが正しい責任の取り方であるはずもなく、おそらく主人公は、この先さらにどうしようもない状況に陥ることが予想されます。

可能性は低いかもしれませんが、脳が壊れてしまった被害者が意識を取り戻し、犯人が主人公ではないと証言すれば、主人公はアリバイのない一日について、妻にどう説明するのか。


物語の冒頭で、もともとスケベなほうの人間であるとはっきり告白していた主人公は、過去のエピソードの端々で、決して性欲が弱くはなかったことを示唆していますが、のちに殺されかけて意識不明となる青年の差入れで豚の睾丸の刺身を食べてからは「体の漲り」を取り戻したと語っています。

殺人未遂事件が起こった当日、ほんとうは何をしていたかを正直に話せば、容疑が晴れるかわりに、妻をより深く傷つけかねないと、主人公は考えたのではないかと思います。

さらに、有罪の判決を受けて刑務所に行くことが決まれば、主人公がやりきれないむなしさを感じている障害児教育の現場からの撤退が可能となります。

結局主人公は、本当の意味で現実と向き合うことから逃げ続けようとしているのでしょう。


どうせなら、主人公がどうにも逃げられなくなるところまで、全部書いてほしかったです。







2018年3月29日木曜日

しみず宇海「片づけられない私をみつめて」(ADHD)



しみず宇海「片づけられない私をみつめて」



講談社 Amazon Kindle版 (Kindle unlimited)
Amazon Kindle版が読み放題となっています


子どものころから「だらしない」と言われ続けた一人の女性が、混乱した生活に苦しむうちに、ADD(注意欠陥障害)という脳の問題に気づき、自分らしい人生を見つけていく物語です。


本書が出版されたのは2005年8月。
大人の発達障害について、何種類もの本が出て、世間でも少しづつ知られるようになってきた時期だったと記憶しています。



学校での苦しみ


主人公の桜坂のどかは、小学校のころから、ルールに従わない問題児とみられていました。

授業をきちんと聞くことができない。
周囲に合わせて適切な行動することができない。
時間を守れず、落ち着きがない。
なくし物が多く、机のなかはぐちゃぐちゃ。


自分ではがんばっているつもりでも、気がつけば何か失敗してしまって先生が激怒する、友達に後ろ指を指される、という学校生活が続きます。

家庭訪問での担任の先生の言葉は、のどかを一方的に非難するものでした。


「やる気がないとしか思えません。同じ分数のテストをやらせると、きのうは100点、今日は10点。そわそわして集中力がない。整理整頓もできないし……」


これを聞いて、のどかは先生が怒るのは自分のせいだと気づくのですが、何が悪いのかまではわかりません。


 なんで あたしは
 怒られてばかり
 いるんだろう


中学に入ると、のどかは成績を上げることで、周囲に一目置かれるようになりますが、不注意と片づけられないのは相変わらずで、そのことで異性に強く非難されるという経験をしてしまいます。


「女のくせに不潔だ」


のどかにとって、あまりにも強烈な言葉でした。

深く傷ついたのどかは、それ以降、外面をなんとか取り繕って「普通の女の子」らしくすることに、全神経を使うようになります。

 あたしも
 みんなと同じ
 女の子になるんだ

 必死だった

 家を一歩出ると
 すべてに気が抜けない
 その代わり
 家の中は
 いつもやりっぱなしで
 散らかした

 外での自分は
 ボロを出さないように
 とりつくろった
 ギリギリいっぱいの自分


のどかの心のなかの、そんな悲痛な思いに、周囲の誰も気づいてくれなかったのでしょう。

その後、就職を機に実家を離れますが、生活面での家族のフォローのない暮らしは、のどかにとって大きな試練となります。



職場での破綻



会社で働くようになったのどかは、能力的に劣っていると思われないために、プライベートを犠牲にして仕事に取り組むようになります。

けれどもちょっとした周囲の音にも集中力を妨げられてしまうのどかにとって、大勢の人が働く会社の環境そのものが、大変なストレスでした。

また、一つのことに集中すると、それ以外のこと手が回らなくなるので、他の社員よりも早く出勤したり残業したりして、仕事の遅れをカバーしなくてはなりません。

心身共に全力を使い果たして、なんとか「普通」を維持しようとする日々が続きます。
当然のことながら、家に帰っても家事などする余裕はなく、一人暮らしの部屋は完全な汚屋敷と化していきます。

そんな彼女ですが、人が思いつかないような斬新なアイデアをたくさん出すことができるという、すてきな「ひらめき」の才能があり、そのことが次第に職場で認められていくようになります。

それは、のどかのような発達の問題を持っている人に多く見られる特徴でもあるのですが、この時点では、彼女はそんな自分の特性に気づくことができません。また、日々のノルマに追われる暮らしでは、「ひらめき」をきちんと形にする余裕もありませんでした。


そのうちに、一生懸命働くのどかの姿に好感を抱いた課長に交際を申し込まれて、恋人としてつきあうことになります。

けれども課長は、のどかが必死で取り繕っている表面的な姿、つまり「よく出来る女子社員としての、のどか」しか見ていない人でした。それに加えて、彼はだらしないことを人一倍嫌い、物事をきちんとしておかないと気が済まないタイプだったため、のどかはますます自分の抱える問題を隠すしかありませんでした。


精神的に追い込まれながら、無理を続けたのどかは、とうとう過労で倒れてしまいます。

のどかを心配してアパートを訪れた課長は、すさまじい汚屋敷の光景を目撃して、絶句。

翌日、課長にどう思われているのかが気になって集中力を欠いたのどかは、仕事で大きなミスを出します。そんなのどかに向かって、

「だらしない暮らしをしているからだ」

と非難し、一方的に責め立る課長。

そんなとき、以前からのどかの様子を見て感じるところのあったらしい女性部長が、ADD(注意欠陥障害)の可能性があるのではないか教えてくれます。

部長自身、家事が出来ないことで離婚し、ADDの診断を受けて投薬治療を受けている人だったのです。

部長の言葉をきっかけに、のどかは生まれてはじめて、自分を混乱に陥れている状況が、努力不足のせいなどではないことを知るのでした。


その後、のどかは理解のなかった課長と別れて、等身大の自分を知った上でサポートしてくれた同僚の男性と結婚し、幸せになります。



本作品の医療監修をされたという、櫻井公子医師のメッセージが末尾にありました。

すべてのADD、ADHDをもつ方に、この物語の主人公のような症状の「すべて」があるわけではありません。さまざまなタイプの方がおられます。しかし、自分の得手不得手、特徴などを理解して、工夫したりサポートを得たりすることで、この主人公のように、自分のよいところを活かして楽しく暮らせるようになる方も多いのです。


その通りだと思います。

櫻井公子(桜井公子)医師には、

 お片づけセラピー (宝島社文庫)
 どうして私、片づけられないの?
  ―毎日が気持ちいい!「ADHDハッピーマニュアル」 (大和出版)

などの親しみやすい著作があり、私も取り寄せて読んだものでした。

また「新宿成人ADDセンター・さくらいクリニック」の院長としても知られていましたが、残念なことに。クリニックは2014年に閉院したとのことです。その後の情報は現時点では不明のようです。


現実世界の「桜坂のどか」



私(ブログ主)自身、主人公の桜坂のどかと同じ種類の問題を持っている人間ですので、マンガで描かれている出来事のいくつかが、かつての自分の体験に重なり、心の痛みを覚えました。


管理できない私物。
頻繁な忘れ物と、遅刻。
段取りを勘違いすることによる失敗。

そして、どうしても片づけられない部屋。

一晩で文庫本10冊を読むことのできる集中力があるのに、興味のない話は2分と聞いていられません。

学校の授業は、地獄のように退屈で、苦痛でした。
教科書もノートも落書きだらけ。落書きしないときは、こっそり本を読んでいました。
いま思うと、人の話を聞くのが苦手だったのでしょう。

とにかく叱られてばかりの子供時代でしたが、のどかと同じように、学校の成績は悪くなかったので、そこに自分の存在意義を求めるようになっていきました。部屋が汚くても、女の子らしくなくても、他にできることがあるからいいのだと、自分にOKを出していたわけですが、ADHD、大人の発達障害などという概念が存在しない時代でしたから、「片づけられない、きちんとしていない女の子」への世間の風当たりは、相当にきついものがありました。

大学に入ってからは、一コマ90分の講義に耐えられず、しょっちゅうサボって単位を落としまくりました。

働くようになると、のどか同様、それだけで精一杯で、家事はほとんどできず、自室の散らかり具合は筆舌に尽くしがたいものがありました。電気代や電話代を支払い忘れて、よく止められていました。

そうかと思うと、自分の好きなことには熱中して時間を忘れ、寝食も忘れ、余計に生活が崩れていくという悪循環…。


思いつきやアイデアが頻繁に浮かぶのに、それをちゃんと形に出来ないところも、のどかと私の大きな共通点です。

マンガの中では、のどかがせっかく思いついて作った企画書が、自室のゴミのなかに埋もれてしまって、本人すらその存在を忘れているというエピソードがありました。

思いついたときは夢中になっているのに、時間がたって鮮度が落ちたり、他のことしなくてはならなくなると、意識の焦点があたらなくなっていくのです。

ここのブログだって、当初の計画では今頃とっくに記事数が200を超えているはずなのに、存在が頭から雲隠れしてしまう時期がちょくちょくあるために、いまだに40記事しかないという有様(2018年3月29日現在)。


自分の問題が大人の発達障害に由来するものだと気づいてからは、桜井公子氏の著作も含めて、関連書籍を読みあさりました。

自分の特性は理解できましたが、現実的な問題は、それだけでは解決しません。

今現在も、「どうやったらこの部屋を片づけることができるのだろうか」と考えながら、主婦生活を送っています。



ADD・ADHD


マンガ「片づけられない私をみつめて」で、ADD(Attentin Deficit Disorder with and without Hyperactivity 注意欠陥障害)として取り上げられている症状は、その後、「不注意優勢型ADHD」として診断されるようになったそうです。


「発達ナビ」というサイトで、ADHDの不注意優勢型として診断される場合に見られる、具体的な症状が箇条書きにされていました。


ADD(注意欠陥障害)とは?症状やADHDとの関係性、
ADDの特性ならではの治療法をご紹介します!(発達ナビ)

https://h-navi.jp/column/article/35026504


■不注意

・よく物を失くす
・整理整頓ができない
・周囲に気が散って集中できない
・細かいところまで注意が向かない
・いつもボーっとしている

■衝動性
・思いついたことをすぐ話してしまう
・順番を待つことが苦手
・優先順位を付けることが苦手
・すぐにかっとなってしまう


ちなみに私(ブログ主)は、上記の特徴のうちの六つを持っています。(´・ω・`)


現在では、学校現場でADHDについて、だいぶ周知されるようになってきているため、のどかや私のような特徴を持つ児童生徒が、無理解な教師に一方的に罵られるというようなことは、昔よりは少なくなっていると思います。

未診断のまま問題を抱えている大人についても、もっと支援を受けやすい状況になってくれればと、願わずにはいられません。











※発達障害についての本を取り上げた他の記事

沖田 ×華・君 影草 「はざまのコドモ」 (広汎性発達障害・睡眠相遅延症候群)


2018年3月28日水曜日

小説「君色ドラマチック」(先天色覚異常)


真彩-mahya- (著) 「君色ドラマチック」  
スターツ出版   


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色覚異常を持つ女性が、アパレルメーカーでパタンナー(デザイン画をもとに型紙を作る仕事をする人)として働くうちに、恋愛と職業人としての自立の問題に直面する物語です。

主人公の杉原慧は、自分の仕事にとって大きなハンディとなる、色覚の問題を抱えています。


そう、私は生まれつき色覚に異常がある。赤い色を感じる錐体が欠けていて、青はかろうじてわかるけれど、あとはピンクなのか黄色なのか、赤なのか緑なのか、さっぱりわからない。色の濃淡はわかるけれど、色味がわからないのだ。だから、肉が生の状態の赤色から、火が通ってピンクから茶色っぽくなっていくのもわからない。 (「君色ドラマチック」から引用)

感覚のテストがない推薦入試で入学した、専門学校の服飾学科。なんとかかんとか二年に進級した私に、最大の試練が訪れた。卒業制作だ。平均四人ほどでチームを組み、デザインから縫製まで、すべてをこなして一着の作品を作る。
……のだけど、私と組んでくれる人は誰もいなかった。学校に通ううち、友達もできたはずだったんだけど……気づけばみんなさっさとグループを作っていて、私はつまはじきにされていた。しょうがないか。色がわからない私を入れたら、気を遣うし、戦力として微妙だしね。服を作ることにすべての情熱と命を懸けているような同級生たちに、私の存在は邪魔だったんだろう。
(「君色ドラマチック」から引用)



それでも慧は、色覚に左右されないパターンの技術を懸命に磨いて、才能を開花させていました。

就職でも苦戦しますが、専門学校の卒業制作でチームを組んだ結城のツテで、アパレルメーカーに採用され、事実上、結城専属のパタンナーとして働くようになります。

デザイナーとしての才能豊かな結城は、慧の恋人でもあるのですが、とても女性にモテる男性なので、職場の女性たちとのいざこざを避けるために、二人の関係は秘密にされています。

恋人としての結城との関係は淡泊で、二人でいても仕事の話ばかりしている日々ですが、慧はそれで充実していましたし、ずっとそんな日が続くと思っていたのですが…

あるとき、結城のほうから、同じ会社に所属する、櫻井というデザイナーと組むようにと勧められます。とまどいながらも櫻井の仕事を受けた慧は、結城が秘密裏に、別の女性パタンナーと仕事をしていることを知り、ショックを受けます。


一方、櫻井は、慧のパタンナーとしての能力の高さを知ると、自分の独立に合わせて慧を会社から引き抜こうとしてきます。

その際に櫻井は、慧が結城に依存した状態であることを指摘し、そままでは慧の未来は暗いと言い切ります。


さらに、結城が慧に黙って仕事を依頼していたバタンナーの、森という女性が、わざわざ慧を呼び出して、色覚異常のパタンナーがデザイナーを利することはないという暴言を吐きながら、独立したがっている結城の足を引っ張るのをやめるようにと忠告しにきます。

「色弱のあなたに、これから結城さんがステップアップしていくサポートが、じゅうぶんにできますか? いくらパターンを作るのが上手でも、それだけじゃ」


猛然とマウンティングしてくる森嬢の意図は、慧を蹴落として、仕事面でも恋愛面でも自分が結城のそばに立とうとするものだったのかもしれませんが、依存関係への負い目があった慧にとっては、結城との決別に踏み出すのに十分なきっかけとなりました。


慧は、会社から独立する櫻井の引き抜きに応じることを決めて、結城には一切相談せずに、退職届を提出しますが……




詳細は省略しますが、多少の修羅場を経て、結局、結城と慧は、相互依存の狭い世界にとらわれているのではなく、一緒にいることで豊かな色を創造していくことのできる生産的な関係である、ということでハッピーエンドとなります。



先天色覚異常


日本眼科学会のホームページの「先天色覚異常」のページに、わかりやすい説明があります。

http://www.nichigan.or.jp/public/disease/hoka_senten.jsp


小学校で義務づけられていた色覚検査が2003年度から廃止されていること、ごく一部の職業をのぞいて、就業時に色覚について問われるケースがほとんどなくなっていることなど、広く知られるべきだろうと思いました。

このページの最後の「ご両親へ」という文章を引用します。

 我が子が生涯幸せであれと願い、子孫にわずかな弱点も伝えまいとするのは人間の本能です。しかし、人間にはさまざまな能力と数々の短所があります。また、遺伝が関与する疾患や障害は数多く、誰しも何らかの遺伝子異常を持っているものです。
 色覚異常は場合により多少問題を生じることがあっても人生を脅かすほどではなく、他の能力や遺伝的障害に比べ損失はわずかです。また、遺伝というものは誰のせいでもありません。
 一部に残る色覚異常を嫌う風習は知識の不足によるところが大きく、色覚異常の遺伝をめぐる問題は、社会全体が色覚異常の色の見え方を正しく理解すればほぼ解決します。社会のつまらない誤解に悩むことのない、もっと楽しむことができる世の中にしたいものです。



この文章は、先天性の色覚異常に対する差別意識が、他の多くの障害や慢性疾患に対する差別同様、まだ社会のなかに残存していることを憂え、そのようなことがなくなるようにと願ってために書かれたものだと思われます。



先天色覚異常、いじめ・差別を受けるなら…教育の敗北 (YOMIURI ONLINE)
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160415-OYTET50017/

こちらの記事では、作曲家の團伊玖磨氏が先天色覚異常であり、そのために教育の場での差別に憤ってきたことが書かれ、

 色覚異常者は、色覚正常者とは少しだけ異なった特性を持った色感覚を持っているという考え方を学び、周囲の少しの配慮、思いやりをそこに導入させることこそ、学校教育の重要課題なのではないでしょうか。

と結ばれています。ほんとうに、その通りだと思います。

なお、記事の執筆者は、井上眼科医院名誉院長の若倉雅登氏。専門は、神経眼科、心療眼科、とのこと。上の記事を含む、「心療眼科医・若倉雅登のひとりごと」というコラムのシリーズをネットで読むことができます。




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2018年2月17日土曜日

映画「路上のソリスト」(統合失調症)


「路上のソリスト」 (原題 SOLOIST)


監督: ジョー・ライト
出演: ジェイミー・フォックス, ロバート・ダウニーJr., キャサリン・キーナー




以下の記事には、いわゆるネタバレ要素が盛大にありますので、映画をまだ見ておられない方は、ご注意ください。m(. .)m


……


ロサンゼルス在住の新聞記者、スチーブ・ロペスは、ある日、自転車で勢いよく転んで病院に担ぎ込まれます。幸い後遺症の残るような怪我はしなかったけれど、顔からアスファルトに突っ込んだため、悲惨な見た目になってしまいます。

傷だらけの顔で出勤すると、35歳以下のアメリカ人で新聞を読むのは40パーセントだけだという、新聞社にとってゆゆしき数字が話題になっていました。アメリカはイラクと戦争中であり、ロサンゼルスには路上生活者があふれ、貧困や犯罪など、目を背けるべきではない問題がいくらでもあるのに、売れるのはノーパン写真ばかりだと。


少し顔の傷がマシになったころ、ロペスは、公園のベートーヴェン像の前で、一心不乱に弦が二本しかないバイオリンを美しく奏でる路上生活者、ナサニエル・エアーズと出会います。(たぶんPershing Square公園だと思われます)


ロペスはナサニエルに話しかけますが、相互通行の会話はなかなか成立しません。
とりとめもなく連想され続いていく単語、情景、感情…

その中に、ナサニエルが在籍していたという、名門ジュリアード音楽院の名前が出てきます。ロペスは学院に問い合わせ、ナサニエルが確かに在籍していたものの、何らかの事情で卒業していないことを知ります。


ロペスはナサニエルとの交流を続けながら、彼について調べ、「西の視点」という人気コラムに彼の記事を書き始めます。





その過程で、ナサニエルの過去と、現在の問題が明らかになってきます。

十代前半でチェロを学びはじめたナサニエルは、あっというまに天才性を発揮し、指導してくれた先生や家族の支援を受けて、音楽院に進学します。

けれども、一人暮らしを始めた頃から、ナサニエルは、自分だけに聞こえる奇妙な声に悩まされはじめます。

疑念や不信を強くかき立てる、その声のために、ナサニエルは学びの場にいられなくなり、自宅に戻って姉の世話になるものの、その姉にすら命を狙われているという妄想に取り憑かれ、家を飛び出してしまいます。それが彼の路上生活のはじまりだったのでした。


事情を知ったロペスは、ナサニエルには定住する家と、精神病の治療が必要であると考え、その手助けをしようと奔走します。また、ロペスのコラムでナサニエルのことを知った読者のなかから、ナサニエルの才能を世に出そうと考える音楽家や篤志家が現れ、ナサニエルの支援を買って出るようになります。


ナサニエルは、生活が大きく変化することを恐れ、支援の手をことごとく払いのけようとしますが、ロペスは粘り強く働きかけ、なんとかナサニエルをアパートに住まわせようとします。ナサニエルにもその思いは通じて、自らの音楽のためにも、少しづつ受け入れようと努力します。


けれども、二人の関係は不均衡で不自然なものであり、そこからくる歪みが、やがて大きな破綻をもたらすことになります。


自らの正義感と同情心と、記者としての職業意識から、精神病者としてのナサニエルの人生に強引に介入し、「安全」で「安定」したものに変えようとするけれども、深い信頼関係を築く勇気を持てないロペス。


そのロペスを神に等しい存在として慕いながらも、ロペスの思惑が、必ずしもナサニアル自身の、人としての尊厳に敬意を払ったものではないらしいことや、ロペスが自分に構う理由が心からの友情や愛情ではないことを見抜いているナサニエル。


ナサニエルは、ロペスが確認を求めてきた書類のなかに、自分を「統合失調患者」とする文章があることに気づき、ロペスに対して激しい怒りと殺意とを見せます。


暴力を振るわれて命の危険を感じたロペスは、ナサニエルの元から逃げ出しますが、同時に自分のなかにある、根深い欺瞞と弱さに気づかされることになります。

精神病を患った天才を助けることも、ロサンゼルスという街の抱える病理を、自らの記事の力で「治す」ことも、ロペスにはできませんでした。けれども、居て欲しいときにそばにいる友人になることだけは、自分にもできると気づいたのです。


ナサニエルも、自分を助けようとしていたロペスに暴力をふるってしまったことを深く反省し、そうした自分を変えたいという気持ちが芽生えたのかもしれません。


再会した二人は、互いに信頼できる友人となっていました。




統合失調症と人生




映画のなかで、ナサニエル・エアーズが統合失調症であることが示唆されています。

けれども、彼は自分がその病気であることを認めず、治療も拒否します。

また、ロサンゼルスの路上生活者のなかには、ナサニエルと同じように統合失調症と思われる精神病を患っているらしき人が多数いるようなのに、彼らを支援するセンターの職員は、治療や投薬には難色を示します。職員は経験的に、投薬治療が彼らの人生を必ずしも好転させないと知っているのでした。


治療できるのにしないのは不合理であると受け止められるかもしれませんが、現実にこの病気と関わったことのある方は、こうした経緯に納得する部分があるのではないかと思います。


統合失調症にに限らず、長い歳月をかけて、人格や人生そのものに根深い影響を与える病気は、それを治療し、完治させただけでは、その人の人生の問題を解決したことにはならない場合があります。

だからといって、治療をしないことが正解というわけでもありません。

病気そのものを治療するだけでなく、その人の人生そのものを再生、再構築し、納得のいくものにしていく必要があるのだろうと思います。ただ、それはほんとうに難しいことでもあります。その難しさの一端が、「路上のソリスト」でも描かれていました。


この映画は実話に基づいたものだそうで、現実のエアーズ氏も、やはり治療は受けなかったようです。

YouTubeで「Nathaniel Ayers」の名前で検索すると、映画ではない、エアーズ氏本人の演奏の動画をいくつも見ることができます。エアーズ氏は、バイオリンとチェロだけでなく、トランペットも演奏しています。自由奔放なスタイルと、奥深い音色は、とても魅力的です。





Mr. Lopez Meets Mr. Ayers






2018年2月16日金曜日

「猫の国語辞典」(ハンセン病)


佛渕健悟・木暮正子編「猫の国語辞典」小学館


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動物を詠んだ短歌や俳句がすきなので、本書を取り寄せて眺めていたら、句歌の下に「ハ」という記号のついたものがいくつもあるのに気づきました。


巻頭の凡例を見ると、「ハ」は「ハンセン病文学全集」を出典とする作品ということでした。


以下に、「ハ」のマークのついた句歌を、抜き出してみました。
(一通り確認しましたが、抜けがあるかもしれません)


------------------------------------- 

肌柔き仔猫を日日に愛しめり盲ひゆく今の独り静けく 辻瀬則世


犬猫の夜見ゆる眼を涙してうらやむ共を慰めがたき   鈴木数吉


垣ばら(薔薇)の真赤に咲ける花の下身籠る猫の腹が土をする  笠居誠一


わが座れば、なき足の上の衣のうへに来てさみしく猫は眼をつぶるなる  尾山篤二郎


陽炎や障子に映る親子猫  近藤緑春


猫去りて矢と降り来たる寒雀   辻長風


玄関を出る恋猫を見とどけぬ   辻長風                  


鈴つけし猫従いてくる萩の道   水野民子


猫の子の鼻に消えたり石鹸玉(しゃぼんだま)    一松


日向なる猫丸々と牡丹の芽       小見思案


猫の子に飯を冷やしてあたえけり  中野三王子


猫抱いて胸を病む娘や秋の風   栗原春月


芭蕉忌の猫抱いてゐる盲かな   藤本銭荷 
(ハンセン病で視力を失った自身のこと)


野良猫も生きねばならぬ軒に居る    伊藤松洞


毛がぬけて嫌われてをり孕み猫   早川兎月


盲人の膝に眠れる子猫かな   太田あさし 
(盲人=ハンセン病で視力を失った自身)


春近き日向に丸き仔猫かな  武田牧泉


夫婦猫夜なべの姿の傍らに   中野きんし





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一つ一つの短歌や俳句のなかの、猫に向けられる思いや視線の背景に、詠まれた方々の深刻な病状や、重苦しい境遇があるのが感じられます。


視力を失って、抱いた猫の体のぬくもりを静かに感じている方々。

夫婦の猫や、恋する猫、妊娠した猫を詠んでいる方々は、療育園の方針で、結婚や出産を禁じられていたのかもしれません。

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「ハンセン病文学全集」のプレスリリースと、ネットパンフレットを掲載しているサイトがありました。


プレスリリース
https://www.atpress.ne.jp/news/483

ネットパンフレット
http://www.libro-koseisha.co.jp/TOP-zenshu-pan/PANHU-MAIN.html


詩歌の巻は、昨年(2017年)亡くなった大岡信氏が責任編集者となっています。

全十巻は第一期というのだから、二期以降も刊行されるのでしょう。


「猫の国語辞典」の「ハ」の作品に気づかなければ、こうした全集があることも知らないままでした。


差別と隔離が産んだ文学というふうに捉えるならば、本来なら、あってはならない作品集であると言えます。

けれども、現実にそれは起きてしまったのであって、そこで生きてきた方々が残した作品が埋もれて消えてしまうことも、あってはならないことだと思います。







ハンセン病



日本では、いまではとてもまれな病気になっているけれど、全世界では25万人ほどの患者が登録されているといいます。

歴史的に差別の原因となってきた疾患ですが、現在では適切な治療を受ければ、重い後遺症を残さず、感染源となることもない病気であることは、広く知られるべきだと思います。

ウィキペディア 日本のハンセン病問題










2018年1月13日土曜日

岡田がる「難病患者になりました」(多発性硬化症)

多発性硬化症当事者による漫画



岡田がる
「難病患者になりました 漫画家夫婦のタハツセーコーカショーの日々」

引用元 Amazon



多発性硬化症(multiple sclerosis; MS)の当事者の方が描いた漫画作品というのを、私はこの作品以外に知りません。

その意味でも大変に貴重な作品ですが、それ以上に、自分や家族が難病と呼ばれる病気になってしまった場合に、大切なことが、きっちりと描かれているように思いました。


■発病前後


作者の多発性硬化症は、最初、歩いていたときに感じた、原因不明の異様なだるさから始まったそうです。

整形外科を受診すると、「腰部脊柱管狭窄症」と診断され、とりあえずは様子見ということで、シップを処方してもらったとのこと。

ところが、その後、発熱。しかもどんどん上昇して、二週間以上も下がらず、全身衰弱。体重が十キロ以上も減ってしまいます。

内科、耳鼻科、ペインクリニックで調べても、やはり原因不明。血液検査では原因が分からず。


解熱剤で強引に熱を下げて、入浴をしてみると、体が温まったところで、いきなり全身の脱力。歩行も着替えもできない状態になるものの、体が冷めると回復。

これは、多発性硬化症特有の症状である、「ユートフ」というものであるのだそうです。


こうした激しい症状が、検査入院中に看護師の目の前で起きていたにもかかわらず、医師は多発性硬化症という病名にたどりつかず、様子見を提案します。

いくら難病でも、ここまで分からないものなのかと、恐ろしくなります。

検査入院で医師が出した結論は、「ストレスが原因か?」というものでした。


■診断に至る


作者は、電子辞書の「家庭の医学」を検索サーフィンしていて、自力で多発性硬化症の診断名にたどり着きます。

けれども、患者側から診断名を持ち出すことで、医師の機嫌を損ねることを恐れて、おそるおそる、風呂上がりの「ユートフ」の症状について相談をし、やっとのことで、多発性硬化症の診断に至る腰椎穿刺の検査を受けられることになります。


もしも作者が電子辞書を調べなかったら、検査入院は丸ごと無駄になり、さらに症状が悪化するまで「様子見」をすることになっていたかもしれません。


作中のコラムで、作者が次のようにおっしゃっています。


------------------------------------- 

私は声を大にして言いたい。「受診を遠慮するな!!」……と。
皆さん、診断に不安を感じたら堂々とセカンド、サード・オピニオンを求めていいのですよ!!

大切なのが「ホームドンター(かかりつけ医)」の存在。
だが、見つけ出すのが難しい……。
重要ポイントは以下の3点。

●患者の話に耳を傾ける
●会話のキャッチボールができる
●わからないことは調べてくれる

患者、医者のどちらかが一方的じゃいかんと思うのです。上記3点をクリアーするドクターに出会ったら手放しちゃいけません!!

逆に「だめだめドクター」の条件は? ……簡単、簡単!!

●看護師に対する態度が悪い
●患者を見下す
●頭が固い

そしてこの口癖が出たら即トンズラしてぇ~っ!!

「素人(のくせに)」「知ってどうするの?」

えぇ、こっちは素人、そっちはプロ。
だからこそわかりやすい説明をせーやっ!!……と。


------------------------------------- 



難病はめずらしい病気であるだけに、兆候が出ても、当事者はまずそれと分かりません。


なんとなく調子がおかしい、ただの風邪と違うと思っても、我慢強い人ほど、様子見をしてしまいます。病院にかかっても、気になる症状を全部は話さずに済ましてしまったり、医師に強く主張できなかったり。そして、なぜか難病になる人には、自分を抑えて他を優先させてしまうタイプの我慢強い人が多いような気がします。


作者の岡田がる氏も、相当に我慢強く、人に頼って世話をかけることが苦手なタイプのようです(長女気質と、ご自身でも描かれています)。

それだけに、気になる症状があっても、医師に強く主張したり、自ら検査を依頼するということは、難しかったのではないかと思います。

そういうタイプの患者さんが、上の「だめだめドクター」タイプの医師に出会ってしまったら……ただでさえ診断の難しい病気は、ますます見逃されてしまいかねません。



作中では、医師に対する直接的な批判はかかれていませんが、上のコラムのような言葉が出てくる背景として、診断がつくまでに出会った医師たちとの間に、どんなことがあったかは、うすうす察せられます。おそらく、大変だったのではないでしょうか。


■治療


その後、おおよその診断がついたことで、ステロイドのパルス療法を開始。
1クールを終えたところで、手のしびれや震えが明らかに改善されたとのこと。

確定診断は検査入院三週間目。

全体的に、とても明るく描かれている漫画ですが、その間の入院生活の重いストレスや葛藤がとてつもないものだったであろうことは、十二分に伝わってきます。

その闘病生活を支え続けた夫ポチダー氏の存在はたとえようもなく大きく、家庭とは、家族とはどんな存在であるのかということを、改めて考えさせられました。




■多発性硬化症



この病気について、私が知っていたことは、自己免疫による難病であるらしいということぐらいでした。私自身、自己免疫疾患のバセドウ病をもっているので、同類の病気として意識の中に入れていましたが、そうでなければ、病名を記憶することもなかったかもしれません。


具体的には、神経を包んでいるミエリン鞘という部位が、自己免疫によって破壊され、動けなくなっていくものだそうです。


「多発性硬化症.jp」というサイトによると、多発性硬化症の患者さんは、世界で約250万人、日本では13000人もいるそうです。患者の男女比は、1:2.9で、女性のほうが男性の三倍近くもいるとのこと。

http://www.tahatuseikoukasyo.jp/index.html


全国で13000人という数字は、少ないようにも感じますが、1万人に1人と考えると、少し数字が身近になってくるのではないでしょうか。

ちなみに我が家には、1万人に5人ほどと言われる、重度の知的障害を伴う自閉症の子と、10万人に6.5人ほどの発症率と言われている、ネフローゼ症候群の子がおります。この二つの障害、病気が一家族内に出現する確率って、一体どれくらいになるのか…少なくとも、我が家以外にこの組み合わせのきょうだいがいる家を、私は一軒も知りません。

案外、日本で我が家だけだったりして…(~_~;)

なにはともあれ、どんなに発症確率の低いものであったとしても、誰もが、難病や障害の当事者になり得えます。

難病と言われる病気についての知識が、正しく一般に広まることで、病気の早期発見や診断ができるようになることを、願ってやみません。