2017年12月20日水曜日

三浦綾子「氷点」(結核)

死に至る病と「罪」と…三浦綾子「氷点」



三浦綾子作品は、エッセイはいろいろ読みましたが、小説はなんとなく避けてきていました。

あまりにも重いテーマであるために、なかなか手を出す勇気がなかったのです。


とくに「氷点」は、物語の最初に幼い子供が殺害されるという、痛ましい始まり方をします。子供が被害者となる悲惨な事件に弱い私には、とくに敷居の高い小説でした。


けれども今年になって、体調を崩したり、自分なりに老いも感じるようになってきたのと、プロテスタントの学校に進学した末っ子の影響で、「聖書」を読む機会が増えてきたことから、キリスト教の視点から、目を覆いたくなるような犯罪や死について、キリスト教徒である三浦綾子氏が、どのようなとらえ方、描き方をするのだろうということが気になってきていました。


そんなわけで、読むなら今かなと感じて、思い切ってKindle版「氷点」をダウンロードして読み始めました。



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上下巻を二日半ほどで読了。壮絶な物語でした。


夫の部下に誘惑されて、不倫に走りかける妻。
二人が自宅で恋の駆け引きに耽っている間、邪魔だというので外に出されていた幼い娘が、行きずりの男に誘拐されて殺されてしまいます。

犯人はすぐに逮捕されたものの、まもなく自殺。
犯行の理由は、育児ノイローゼ。
妻を産後に亡くしてしまい、貧しい暮らしのなかで一人で赤ん坊を育てているうちに疲労困憊し、泣く子供を見て発作的に殺してしまったようでした。


娘を殺されるという最悪の事件をきっかけに、夫は妻の不倫に気づくけれども、それを妻に問いただす勇気のないまま、暗い嫉妬と憎悪に取りつかれ、妻に対して、最悪の報復手段を思いついてしまいます。

それは、娘を殺した犯人の子供を、妻にそれと知らせずに養子に迎え、亡くした子の身代わりとして育てさせ、頃合いをみて事実を知らせ、絶望の淵に叩き落とすという、下劣極まりない方法でした。



けれども、養子の件が実現する前に、妻の不倫相手が結核になり、職場を去るという出来事があります。


以下は、妻の不倫相手である村井医師と、村井の勤め先である病院の医院長であり、不倫妻の夫でもある、辻口啓造医師との会話です。



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「相談というのは、松崎のことではないんですか」
「いいえ、相談というのは、ぼくの体のことなんです」
「君の体のこと?」

ハッとした啓造は、職業的なまなざしで村井をみつめた。村井は急に淋しい目で啓造の視線をうけとめた。

「院長、テーベ(結核)らしいんです」
「テーベ?」

 啓造はとっさに、近頃満員の眼科の待合室を思いうかべた。
 村井にはふしぎに患者がついた。このごろは特に人気があった。美男で肌ざわりがいいということだけではなかった。彼の手指の器用さは、大げさにいえば天才的といってもよかった。手術がうまかった。村井の二年つとめた成果が、今あらわれつつあった。

(今、村井に休まれたら、病院の経営にひびくだろうな)

 啓造は、村井の体よりも、病院の経営のことを心配している自分に気づいた。

「ルンゲ(肺)ですね」
「ええ、この春先から、ときどきねあせをかいていたんですがね。微熱もたまにありますが、大したことはないんです。ただちょっとヘモリ(喀血)ましてね」
「ヘモったんですか!」

 内心、(ザマをみろ)と叫びたい冷酷な思いがあった。

「すこしですがね。歯ぐきの血かと思ったていどですから。それで、今日検痰してみましたらガフキー二号でしてね」

(空洞があるな!)

 啓造の背筋をつめたいものが走った。昭和二十一年ごろの医学では、空洞のある結核は死の隣りに位していたといっても過言ではなかった。今日何となく村井のじだらくな感じがしたのは、肺結核発病によるショックのせいであったかも知れない。

 ガフキー二号では、これ以上の勤務は当然無理であった。

「すぐ、レントゲン写真をとりましょう」

 啓造は色あせたような村井の顔をながめた。彼は内科医として恥じる思いもあった。


(三浦綾子『氷点』 「西日」から引用)


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この短い会話の間に、啓造の心には、村井に対する複雑な思いが浮かび、流れていきます。


啓造にしてみれば、村井は妻の不倫相手あり、二人が密会したために愛娘が殺されたわけですから、彼が結核になったことに対しての同情心は微塵もありません。村井が喀血したと聞いて、大人げない優越感にかられています。


反面、村井の医師としての才能は客観的に認めていて、村井に去られることで、自分の病院の経営が厳しくなることを懸念しています。この人は、村井が妻の不倫相手とわかった上で、今後も自分の病院で働かせつづけるつもりだったわけです。


大人げなく「ザマをみろ」といっているほうが、まだ人間らしい気がします。


そして、さらにややこしいことに、啓造は医師としての倫理観から、自分のそういう感情を、恥じる気持ちさえ持っているのです。


心のなかにいろんな感情、人格があるのは、人間にとってはめずらしいことではないのかもしれませんが、こんなふうに、矛盾したマイナス感情をさらけ出されると、解剖した内臓でも見せられているようなグロテスクさを感じてしまいます。啓造が、表面上は温和な紳士然とした人物であるだけに、気持ち悪さが一層際立ちます。


相矛盾したグロテスクな思いを抱えているのは、啓造だけでなく、妻の夏枝や、不倫相手の村井も同じで、他にも様々な大人たちの、心貧しい思惑が絡み合って、啓造夫妻が引き取って育てた養女の絶望と自殺という、さらなる不幸を生み出すことになります。






結核



結核、肺の病気というと、すぐに思い浮かべるのが、レントゲンの撮影です。

「氷点」でも、村井が結核らしいというのを聞いて、啓造はすぐにレントゲンを撮ろうと言っています。

ふと、日本の医療現場でX線撮影が用いられ始めたのはいつ頃だったのかと気になって、調べてみました。


レントゲン博士がX線を発見したのが、1895年(明治28年)。
その3年後の1898年には、ドイツのシーメンス社が開発したX線撮影装置が、日本にも輸入されているそうです。


ウィキペディア「X線撮影」のページ。



その後、1909年(明治42年)には、島津製作所が日本ではじめて、医療用X線装置を開発し、発売開始。


SIMAZU History
https://www.shimadzu.co.jp/visionary/history/1894.html


二代目島津源蔵が製造販売した、この医療用X線撮影装置は、多くの病院に納入されたとのこと。

「X線120年/ 被曝の歴史」
http://tokyoweb.sakura.ne.jp/tokyo_m/it/xray/xray.html


日本では100年以上前から、X線撮影装置が医療現場で使われていたということに、ちょっと驚きました。


その後、日本と米英が開戦する前年である、1940年(昭和15年)には、結核予防会によって、X線撮影装置を搭載した検診車両が作られ、全国に普及したそうです。


公益財団法人結核予防会
http://www.jatahq.org/outline/index4.html


小説「氷点」の作中、村井が結核と診断されたのは、終戦翌年の昭和二十一年(1946年)と書かれていますが、終戦直後という厳しい時期に、経営に苦労していた啓造の病院でも、レントゲン撮影は当然のように行われていたようです。


けれども、ペニシリン(抗生物質)での治療が日本国内で普及したのは、戦後しばらくたってからのことのようで、1970年であっても、結核で亡くなる人が多数いたという記録があります(ウィキペディアに掲載されていた「死亡率によってみた死因順位」で、1970年の全結核での死亡率は第8位)

ウィキペディア 「結核」のページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%A0%B8#cite_note-30


死亡率によってみた死因順位:1900~2005年
http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Data/Popular2007/T05-24.html


X線撮影で肺の状態が詳しく分かったとしても、心強い治療の方法があったわけでもなく、患者の立場は相当につらいものだったことが想像されます。


村井が発病した1946年は、結核が日本の死亡原因のトップを飾っていた、1940年~1950年という期間の中にあります。


作者の三浦綾子氏が結核を発病したのも、村井と同じ1946年だったと、ウィキペディアの記事にありました。

そういう状況を、その時代の医師であった啓造や村井、そして患者であった作者は、確実に把握していたことでしょう。


なお、本人も周囲も強く死を意識したであろう村井ですが、「氷点」の物語のなかでは結局死なず、最悪に近いタイミングで、しかもろくでもない存在として、啓造夫妻のそばにカムバックしてきます。死の淵に追いやられた村井は、心がいっそうねじくれた人間となって、関わる人間に一層の不幸をもたらすことになります。

外面温厚な紳士である啓造も、別件で死に直面することになるのですが、彼もまた内面に抱える闇や矛盾に立ち向かう勇気を持たないまま、カタストロフィへと向かっていくことになります。ほんとうに、救われにくい人々ですが、人間なんて、そんなものであるのかもしれません。







ウィキペディア「氷点」のページ



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*この記事を書いた当時(2017年12月)には、三浦綾子「氷点」上巻が、Amazon kindleで特別無料版として公開されていたのですが、その後、公開終了したようです。





2017年12月16日土曜日

たむらあやこ「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー」(ギラン・バレー症候群)

たむらあやこ「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー」

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本書の冒頭に、作者、たむらあやこさんの言葉があります。



これは2002年から現在まで続く
ギラン・バレー症候群との闘病の回顧録である。
 
何かしらあなたの心に残りましたら
幸いです。
たむら あやこ拝



残りまくりました。

たとえいつかボケたとしても、本書を読んだ記憶は、脳のどこかに残る気がします。
それくらい、がっしりと心に形を残す作品でした。



「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー」を読む前にも、ギラン・バレー症候群のことは、多少は知っていたつもりでした。

免疫系の難病を持つ長女と、重度の知的障害および運動機能に若干の問題をもつ息子がいるので、神経系、免疫系に関連した病気は、他人事ではなく、いろいろと調べていたのです。


でもこの漫画を読んでみて、「多少は知っていたつもり」どころか、まるっきり、なにも分かっていなかったことを、思い知りました。


少しばかり概説やネット情報を閲覧した程度では、覆い被さるように迫ってくる巨大ガシャドクロの如き病態相手に、魂の持つエネルギーすべてを振り絞って、支えてくれる身内と共に命がけで闘うような病気であるということは、とても分かりようがなかったのです。それらは、私のちゃちな想像力を、はるかに超えていました。



この作品の表紙が、私はとても好きです。




難病に人格と姿を与えたなら、きっと、こんな風だと思いますから。

ドクロ以外にも、章ごとの表紙などに、妖怪のような奇怪なキャラが、ざらりとした冷たい手触りすら感じさせるような筆づかいで描かれていて、とても心引かれます。病気とがっぷり四つに組み続けている作者だからこそ、描ける病気たちの姿なのかなと思います。


作者は、ギラン・バレー症候群になる前も、准看護師として小児病院で働いていたとのこと。
職場である病院で発病し、そのまま病院に入院。病院づくしの作品です。

家族や自分の病気のために、なにかと病院と縁が切れることのない私にとって、親しみ深いシーンが数多く出てきました。



たとえば、准看護師だったころの作者が、仕事の要領が悪すぎて先輩にしかられ、向いていないのかと悩んでいるときに、小さな患者さんから似顔絵を貰って元気づけられるところ。

作者のおおらかでたくましくて(でもちょっと大雑把で)、そして人の心の温かさを深く知る人特有の、ひたむきな思いを語る様子が、まだ二歳だった長女の長期入院中に、実習で来ていた看護学生さんたちや、親身に世話をしてくださった准看護師さんの姿に重なりました。あれから二十年、みなさん、どうしていることか…。



病む前も、病んでからも、自らの存在で病む人を支えたい、喜んでほしいと考えるような人だった、作者。


ごくまれな難病である、ギラン・バレー症候群のなかでも、とくに重篤な、強い苦痛のある病状と戦い抜き、いまも闘っておられるという作者の心が、ぶれることなく、病を正面から見据えた上で人の心の支えとなるような表現の世界へと向かったことに、心から感謝の気持ちを贈りたいと思います。


がんばりすぎて、心身を追い込んで…そうして重篤な病気になってしまった我が子を見たご両親は、言葉にならないほどの衝撃を受けたはずです。難病は、患者となった本人だけでなく、家族や、親しい人々の人生をも一変させます。

作中で語られる、両親、親戚、友人たちの、主人公を支える力は、ほんとうに見事なものでした。

とくに主人公の父は、額の「父」の文字が「父改」になるほど心をすっかり入れ替えて、ギャンブルを完全に断ったばかりか、自宅のバリアフリー化を自分の手ですべて行ってしまうなど、理想的な難病患者の父親となっていきます。


漫画の終わりに書かれている作者の言葉は、難病であるか健康であるかに関わらず、あらゆる人に向けられたものだと思います。



最後になりますが、私が寝たきりになったとき 一番後悔したのは "もっとまわりの人を大切にすればよかった"ということでした 
もし動けなくなったとき 後悔しないように 日頃からまわりに感謝し 大切にし 自分のために趣味や好きなものを見つけて 一人でも多くの方によい人生を送って欲しいと願います


病気して良いことも悪いこともあって 何でも無駄じゃなくて何でもありがたくて……そう思えるようになっただけでも 成長できたと思う 自分なりに   
また明日から丁寧に ただ生きていこう


しっかりと、受け止めたい言葉です。




ギラン・バレー症候群


ウィキペディアの記事によれば、ギラン・バレー症候群の60%以上は、何らかの感染症が先行して、その後に発症するとされています。また、ワクチン接種後や、妊娠後の発症も認められるとのことです。


免疫の関連する病気への、ワクチン接種の影響というのは、これから我が子に予防接種をと考える親御さんとしては、気になるところだろうと思います。

ちなみに、私の子供のネフローゼ症候群発症は、ワクチン接種からまもなくのことでした。発症の直前には、鼻を垂らすなど、軽微な風邪の症状もありました。医師は、それらと発病との因果関係については、なんとも言えないとの意見でした。ワクチン接種の影響については、とくに気になるところですが、そういう報告例が、ほとんどなかったのでしょう。

医学的に関係があるかどうかは不明であるとしても、親として悔いが残るのは、ワクチン接種の時期を、もっと慎重に選べたのではないかということです。当時の記憶は、もうだいぶ薄れてしまっていますが、我が子の様子をより注意深く見ていたなら、軽微な風邪の兆候であっても、接種の前に見極められたかもしれない、より万全な体調で接種していれば、発症はなかったのかもしれないと、どうしても考えてしまいます。

これからワクチン接種する親御さんには、私と同じような悔いを残してほしくないと、心から思います。体調の悪いときに接種を受けるのがよくないのは当然としても(事前チェックを受けるはずです)、とくに、お子さんの近親者に自己免疫疾患の患者がいるような場合は(我が家がそうです)、体調をよくよく確認して、接種を受けたほうがよさそうに思います。



私自身は、バセドウ病という自己免疫疾患を持っていますが、発症したのは、人生で最大級の精神的ストレスを被っている最中のことでした。発症直前の体調がどうだったかは、詳細には記憶していませんが、ストレスのせいなのか何なのか、年がら年中、ゲホゲホズルズルとやっていたのは確かです。あまりに咳が続くので、子供が入院している総合病院の内科で見てもらったら、ぜんそくの可能性があると診断され、しばらく投薬治療を受けていたこともありました(その後はぜんそくの再発はありません)。

また、「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー」の作中、発症した主人公(作者)が、複視という症状も併発しています。眼球を動かす神経がうまく働かなくなって、物が二重に見える症状です。

私もこの複視の症状を持っています。
はじまったのは、最初のお産の数日後で、腕に抱いた我が子の頭が二つ見えるので、頭がおかしくなりそうでした。

その後、多少改善はしたものの、結局完治はせず、いまも視界の一部がハデに二重になっています。


「ふんばれ~」の主人公(作者)は、発症前、ひどい風邪を引いているのにもかかわらず、点滴をうちながら、無理して働き続けてしまっています。また父親のギャンブル依存症のために、幼いころから親戚のうちに預けられたり、バイトを強要されたり、望みの進路を諦めさせられたりするなど、余計な苦労をいろいろとしてきていることが、作中で描かれています。

ストレスは、どうにも回避しようのない場合もありますけれども、ストレスに極度の体調不良が重なったようなときには、無理しつづけると、巨大ガシャドクロのような病気につかまってしまうかもしれない、ということは、誰もが肝に銘じておくべきと思います。


まわりのひとだけでなく、自分のことも、大切に、丁寧に、生きていきたいものです。
(お前がそれを言うなと、石を投げられそうですが…orz)






【参考ページ】

ウィキペディアの「ギラン・バレー症候群」の記述

ギラン・バレー症候群の引き金の一つと考えられる、カンピロバクター症についての、ウィキペディアの記述

単行本発売記念番外編「フロムヘル」